2016.08.01

シン・ゴジラと庵野秀明、そしてモスラ

12年ぶりのゴジラシリーズ最新作、「シン・ゴジラ」を観ました。
フルCGで野村萬斎の動きをモーションピクチャーで体現した凄まじいまでのゴジラの迫力、長谷川博己・竹野内豊・石原さとみをはじめとする錚々たるキャスト、これだけでも観るに値する作品でしたが、それ以上にこの映画には重いテーマが隠れていて、それが公開まで隠しに隠してきたものだと確信しました。

1954年の初代ゴジラは、大戸島で畏れられてきた神とされながら現実には古代生物が水爆実験で変異したものとして登場しましたが、「シン・ゴジラ」では米国から研究を委嘱された牧教授が伝説の呉爾羅からGODZILLAと名づけたとされ、放射性物質を食らって変異したと、ほぼ同じ原因で誕生したとされています。
この間のゴジラシリーズは、この原因をはしょって単なる怪獣映画として構成されてきただけに、これだけでも新たなゴジラシリーズとしてのシンの意義は十分だと思います。
一方、1954年版ではゴジラ発見後の対応を国会らしき場で議論されていましたが、2016年版では第一報が内閣に上がったところで空疎な会議の連続で後手後手に回ってしまい、国会での議論は描かれることもなく総理以下主要閣僚が亡くなるという緊急事態で、長谷川博己・竹野内豊そして平泉成らによって構成される臨時政府が危機に立ち向かいます。
また、1954年版では登場しない米国および米軍が、今回は放射性物質を廃棄した者として、さらには日米安保条約や国連多国籍軍の相手国として、ゴジラと日本に向き合います。
ここにこそ、真実のゴジラシリーズとしてのシンの意義があると思ったのは、米国からの圧力を感じさせる場面ばかりでなく、長谷川と竹野内の会話の中で、「属国」という言葉が飛び出してきて、これはまさに白井聡の「永続敗戦論」そのままだと感じました。
「属国」としての日本が、ゴジラと米国に対してどのようにしていくのか、これがクライマックスにつながっていきますので、ぜひ劇場でご覧いただきたいと思います。

ところで、今回の総監督は「エヴァンゲリオン」シリーズの庵野秀明ですが、彼にはもう一つ宮崎駿監督の「風立ちぬ」の堀越二郎役の声優という立場があります。
この映画での声優になぜ庵野監督を選んだのか不思議に思いながらも、抑制のきいた声での伝説の戦闘機設計者役には好印象を持ちましたが、今にして思えば、戦争を描くことで反戦平和を考えさせるジブリ作品の遺伝子を受け継ぐ存在と宮崎監督は認めていたのだと思います。
今回のシン・ゴジラは、圧倒的な存在であるゴジラに対して、日本が自衛隊ばかりでなく内閣も産業界も総力を結集して立ち向かうのが描かれており、東日本大震災や熊本地震などで見せたオール・ジャパンの底力が再現されているのも必見ですが、こういう日本を見せるのが庵野監督の表現したかったものなのだと思います。

ただ、ゴジラと立ち向かうために、東京は壊滅的な被害と放射能汚染に襲われてしまいますし、軍民ともに多数の死者が出てしまったのも冷酷に描かれています。
個体そのものが進化する超生命体として登場するゴジラですが、その知性もしくは知能は未知数であり、今回は神や呉爾羅として拝み鎮めようとすることはありませんでした。
折しも、公開前に「モスラ」で妖精役を演じたザ・ピーナッツが亡くなったことが報じられていましたが、あの歌声にモスラが従ったように、ゴジラと戦うのではなくなだめることで収束を図ることも映画としては考えられるのではないでしょうか。
人知を尽くしてもどうにもならない時、最後に人間ができるのは祈ることのみであり、その役を果たしたザ・ピーナッツがいなくなった年に、シン・ゴジラが上映されるのも、何かの因縁を感じますが、庵野監督にはぜひモスラもやってもらいたい気がします。

これだけのことを考えさせてくれる映画、それがゴジラです。

2015.09.19

【時評】「戦争法」成立の先の先を考える

「集団的自衛権」などという、現行憲法とは相いれないことを実現させるための史上最悪の法案が、とうとう参議院でも可決成立しました。
いくら世論調査で反対が圧倒していても、国会議事堂の周りで廃案を叫ぶデモの声があふれても、いったん議席を得てしまえばこちらのものとばかりに自公与党は聞く耳を持たず、数の力で押し通してしまいました。怒りを通り越して、本当にあきれてしまいます。

多数決への疑念はあるにしても悪法も法なり、国権の最高機関で決まったことには従わなくてはなりませんが、だからこそ次にすべきことは戦争法に賛成した議員を落選させ戦争法廃止法案を成立させる一点で大同団結し、その後すみやかに政界再編する流れを作ることです。
今回のことで一番注目を集めた学生団体SEALDsもさっそく「落選させよう、選挙に行こう!」とアピールをはじめたそうですし、共産党も独自候補を前選挙区に立てる方針を転換するそうですが、ここ数回最低投票率を更新し続けている流れも、名前を知っているからとか信心しているからといった安易な理由で投票することも、誰がなっても変わらないからと投票しないことも結果悪であることがわかったからには、きっと変わるはずです。

これは焦眉の急となる最優先課題ですが、仮に廃案になったとしても日本としての安全保障をどう考えるのかは、改めて考える必要がある問題です。
これまでどおりの個別自衛権と日米同盟で仮想敵国とされる中国・北朝鮮に備えるというところに立ち戻ることになりますが、憲法9条を素直に読めば自営のための軍備そのものも認めていないわけですし、護憲改憲の双方とももう一度原点から考えるべきではないかと思います。
経済のグローバル化が進む現代においては、竹島・尖閣諸島や南沙問題のような点での紛争はあっても、帝国主義時代のような国そのものを滅ぼすような戦争は起こりえないと思いますし、「イスラム国」問題にしても西洋側が勝手に線引きした国境線を無視して内戦をしているようなものですので、そこに米国のように手を出しさえしなければ巻きこまれることもないわけです。
もちろん、竹島・尖閣も北方領土も日本固有のものと思っていますし、解決のための外交努力は必要だと思いますが、軍備増強が解決よりも緊張を生んでいるように思うだけに、現行の安全保障体制でよいとは思っていません。
実際のところ、戦争法成立で喜んでいるのは米国の一部だけですし、国際的にも憲法9条があることで日本を評価する方が圧倒的に多いのですから、国内的には災害救助、国際的にはPKOでの復興支援に活動を縮小して、名実ともに憲法9条を実現させるという大澤真幸の論に私も賛同したいと思います。
そんなのは夢だバカげていると思うかも知れませんが、何が存立危機事態なのか不毛な議論をするよりも、世界平和のために率先してできることは何か、どうすれば実現できるのかを論じる方がよっぽど実があると思いますし、戦後に首相を務めた石橋湛山は戦前のジャーナリスト時代に軍備放棄を唱えており、あの石原莞爾も満州事変の先に最終戦争そして恒久平和を夢想していたのですから、その足跡に縁ある者としての責任があると思っています。

政治とりわけ平和を語る上では、夢と理想を持って意見を戦わせる、そのための石を投げてみましたので、皆さんからの異論反論お待ちしています。

2015.08.27

松陰室で床下村塾を知る

先日の叔母からの聞き取りで養生会とのご縁を知りましたので、以前から関心のあることでもありましたので、代表である小笠原豊さんにお願いして、お話をうかがうことになりました。
養生会は、その名のとおり市内のど真ん中・元長町にある養生幼稚園に本部があり、そこには幕末の吉田松陰北雄の際に地元の蘭学者・伊東梅軒と語らった松陰室があります。
思想家としての松陰を尊奉する私ですが、一昨年は縁あって萩の松下村塾や野山獄を訪ねる機会があり感激ひとしおだったものの、これまで地元の足跡をたどる機会がなかっただけに、これだけでもうれしいことだったのですが、小笠原さんのお話はそれにも増して琴線にふれるものばかりでした。
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六十次郎先生のことでは、満洲国から盟友・石原完爾が去った後も大同学院に残って建国の理想実現に尽力されていたのだそうですが、時宜をみては帰弘されたそうで、1944年4月の「松陰祭」の際には公会堂に集まった1000人を超える聴衆を前に反軍演説を行ったそうですが、あまりに理路整然とした内容に特高警察も「演説中止!」とすることができず、その演説後に特高だけを集めてさらに論じたという伝説を教えていただきました。
その際には処分を受けずに済んだものの、翌年に不惑のこの大人物にまで召集令状が突きつけられ、二等兵として従軍したところでソ連軍にとらわれて、それが11年にわたるシベリア抑留となってしまうのですが、その帰還の際には列車が矢立峠を越えて津軽に入ると情報を得た住民が沿線沿いに立ち並んで出迎え、弘前駅から自宅までの道は車が進めないほどだったそうです。
その抑留時代の記録を、ソ連軍に検閲募集されないように二重になっているセメント袋の内側に書き続け、それを帰還する人たちの水筒に丸めて持ち帰ってもらったのをまとめたのが『シベリヤより祖国への書』としてまとめられたのですが、当時仕えた叔母はその清書をしたそうです。
思えば、当時の旧制弘中で数年違いであり同時期に満洲国に暮らした六十次郎先生と祖父の間に交流がなかったはずはなく、それが叔母が仕えるご縁にもつながっているのだと思います。

その六十次郎先生が石原完爾とともに広めた東亜連盟ですが、今となって知る人も少ないものの当時は広く支持を集めていたようで、1945年7月には赤十字社青森支部が講演者として石原を招いて大演説会をするほどだったそうで、その先導役が六十次郎先生の後輩であり私にとっては母校の校長である鈴木忠雄先生というのも驚きですが、未来を見る超能力があったという石原が「この町がなくなってしまうとは残念だ」と月末の青森大空襲を予言したというエピソードまで残っているそうです。
石原というカリスマ的存在があって人は集まったものの上下関係ではなく「自治共同」を掲げる横のつながりだったために、戦後も組織化されることがなく東亜連盟は消えていったというのが後世の評価だと小笠原さんは話されていましたが、その一員であり戦後弘前の自治の基礎を作り上げた鳴海修先生は、そこで得た知識と経験を町会連合会や子ども会の立ち上げに生かされたということでしたので、その理想とするところを学び直すことが今の弘前市にも大事なことだと改めて思いました。

これ以外もたくさんのお話で1時間半も聴き入ってしまいましたが、最後に六十次郎先生はシベリアで書き残す作業を床下でされていたのだそうで、それを「床下(しょうか)村塾」と名づけていたのだそうです。
これは、まさに松陰室に起居されていたこともある六十次郎先生ならではのお話であり、その厳しい抑留生活をユーモアで乗り越えてこられた原動力がここから生まれたのだと感慨深い思いで松陰室を去りました。
まだまだ尽きない津軽と満洲国、そして我が家とのつながりを解き明かすために、これからもご縁をたどっていこうと思います。

2015.08.18

終わらない「満洲国」

戦後70年、さまざまな角度から検証する必要がありますが、私にとってはやはり祖父が夢をかけた満洲国のことが気になり、先日の松嶋菜々子主演のドラマ「レッドクロス」では戦中戦後の満洲が舞台でしたので、非常に感慨深く見ることになりました。
しかし、すでに祖父母とも鬼籍に入っているだけに、今となって当時を語ることができるのは長女である叔母のみですので、久しぶりの対面を板柳町の有料老人ホームで果たしました。
数年ぶりに見た叔母は、すっかり晩年の祖母とそっくりになっていて驚きましたが、記憶はまだまだしっかりしていて、自らの記憶と祖母から聞いていた話を織りまぜて、満洲国時代と戦後になってからの余話とあわせて教えてくれました。

その話によると、叔母は生まれて2ヶ月で飛行機に乗せられて祖母とともに渡満、その際に半年間満洲国皇帝溥儀の侍衛長を務めた板柳町出身の工藤忠氏のお宅にお世話になっていたそうです。
最初は祖父の赴任先の佳木斯に数年暮らしたそうですが、敗戦までは国策会社で運転手が迎えに来る立場となった祖父を筆頭に新京で暮らし、工藤家との交流は厚く、とりわけ祖母と忠氏の次女・あい様は仲がよかったそうで、工藤家が1945年3月に引き上げる際に一緒する約束をしたのだそうですが、神州不滅を信じる祖父が「帰るなら離縁する」と言うので、泣く泣く敗戦までいたのだそうです。
戦後もおつきあいは続いていたそうで、津軽に戻って生家を継いだあい様の息子・正道さんと、その家を資料館「皇帝の森」として切り盛りしている静子さんご夫婦の祝言には祖母が招かれたそうですし、叔母も何度かおじゃましたことがあるそうです。
また、叔母の上京生活の際には、これまた弘前市出身で石原莞爾の「最終戦争論」に多大な影響を与えたばかりでなく、自ら満洲国にかかわったためにシベリア抑留の憂き目に遭った伊東六十次郎先生の秘書役で仕えるご縁をいただいたそうで、何度か成田市に隠棲した忠氏のところに先生のお供でおじゃましたこともあったと聞き、満洲国の当時ばかりでなく戦後までも津軽の満洲人脈はつながっていたという貴重な証言を聞くことができました。
伊東先生は、石原莞爾亡き後も最終戦争後の恒久平和に最後まで夢を抱いた方だったそうですが、全国を股にかけての講演活動や執筆の合間を縫って、石原とともに培った東亜連盟の流れを汲む養生会の会合に出るために帰弘する機会を大事にしていたそうで、連盟の時代から戦後弘前の市政教育を担った人材が結集してきた養生会に先生のエッセンスと思いは伝えられてきたのです。
こうしてみると、叔母のおかげで満洲国の中枢にかかわった工藤忠・伊東六十次郎をつなぐところに我が家がつながっていたということがハッキリしましたし、それが戦後の弘前にまでつながることがわかり、歴史をさぐる手がかりが大きく拡がった気がします。

叔母との面会の前には「皇帝の森」を再訪したのですが、暑さ和らいだ頃に叔母を案内して旧交を温めながら今のうちに聞き出せることを教えてもらおうと思っています。
敗戦とともに消えた満洲国ですが、津軽と我が家にとっての満洲国は私の生涯における探求テーマとなった気がしますし、ひいては私の戦後は終わりません。

2015.08.15

1995年という節目

70年目の8月15日を迎えました。
もちろん、昭和天皇の玉音放送が正午に流された重要な日ですが、日本がポツダム宣言を受託したのは前日の14日、ミズーリ号で降伏文書に署名したのが9月2日であって、国際法上の敗戦日ではないというのはトリビアな知識です。
この敗戦記念日をふまえて、昨日は安倍総理が談話を出し、今日は戦没者追悼式典で天皇陛下がお言葉を述べられましたが、キーワードを盛りこまざるを得なくなったために談話というには冗長すぎる文章で、にもかかわらず自分の思いがこもっていない内容と棒読みでは、平和派はもちろん右翼からも受け入れられないレベルにとどまってしまったのに対し、陛下のお言葉は簡潔ながら自らと国民の思いを明確に主語にされており、思いの深さと伝えるための形においても、まったく比べものにならないものだったと思います。
この場を借りて、安倍晋三一派以外の国民と同じく、先の大戦の反省とアジアの人々へのおわびを表明し、日本を戦争をしない国として守っていくことを誓います。

それにしても、阿部談話を暴走させずに終わらせたのは、村山総理の戦後50年談話が世界的に評価されており、中韓との関係や公明党への配慮を考えた上でその枠組みを踏み外すわけにはいかなくなったのが大きいわけですが、今から振り返ると1995年という年は、まさに節目の年だったのだと改めて思います。
1月には阪神大震災が起きましたが、それから中越地震・中越沖地震そして東日本大震災が発生し、御嶽山や口之永良部島などの噴火も相次ぎ、これが日本列島を取り巻く地殻変動のはじまりだったわけです。
3月には、オウム真理教による地下鉄サリン事件がおき、バブル崩壊からはじまる今後の社会への不安が無差別テロという形になって暴発し、そこからはじまる社会の信頼感のなさは増幅していく一方です。
そして、自民党が下野する政治的混乱から生まれた自民党・社会党(現在の社民党)・新党さきがけ(現在は消滅)3党による連立政権で社会党から総理大臣となった村山総理は、戦後50年の節目にあたって国会決議ではなく総理談話という形式をもってアジア諸国への謝罪と反省を語ったわけですが、これが安倍一強といわれる独裁的な極右政権が見直しを図っても乗り越えることができないほどの壁となって、平和国家・日本を守る楯となっているわけですから、今にしても大きな意義を持つ談話が出されたのも、1995年でした。
当然ながら、この20年の間に変わったことも多いのですが、前後70年を振り返って未来を考えるよりも、自ら体験してきた20年を足場に改めてスタートする方がリアルなのではないでしょうか。

「もはや戦後ではない」と言われてから生まれた私ですが、いまだに戦後70年と数えられるのが今後も続くよう、平和を守っていくつもりです。

2015.08.14

「日本のいちばん長い日」の前に

お盆ではありますが、戦後70年の節目を迎える前に見ておかなくてはと思い、映画「日本のいちばん長い日」のために青森市まで足を伸ばしてきました。

「いちばん長い日」とは、もちろん1945年8月15日をさすのですが、原作では7月末のポツダム宣言が突きつけられてからを、映画では幕引き役を果たした鈴木貫太郎首相への大命降下から、太平洋戦争最終盤の政権中枢ではどのようなことがあったのかを克明に描いた内容です。
映画としてのできばえは、配役の重厚さや戦時中を伝える舞台選びなど見るべき価値があり、戦後70年ともなって敗戦記念日がいつなのか敵国はどこだったのかも知らない世代が増えているご時世だけに、ここで改めて描いておく意義はあるストーリーだとは思います。
ただし、本当にポツダム宣言から原爆投下・ソ連参戦まで至らなければ敗戦を受け入れることはできなかったのかという冷徹な分析は必要ですし、映画でも中枢の人物や兵士たちは登場してきても一般国民はほとんど出てこないように、天皇や軍隊と護るという国体護持には意を注いでも、長引いて本土空襲まで受けるほどの劣勢に立つ中で多くの兵士ばかりでなく国民までもが殺されていくのを少しでも早く終結させるという思いがなかったのを、映画の陰から読み取ることを忘れてはならないと思います。

それにしても残念なのは、この映画が弘前市で上映されていないことです。
シネコン側の配給戦略によるものですからいかんともしがたいこともあるでしょうが、津軽や青森県を舞台にしたものなら先行上映やロングランともなることがあるだけに、かつての第8師団司令部が置かれ軍都を標榜していたのですし、映画には登場しませんでしたが昭和天皇の弟で大隊長として弘前市に赴任在住されたこともある秩父宮様とのご縁もあるのですから、この映画はぜひにも上映してほしかったと思います。
弘前市は、軍都として真っ先に空襲を受けてもおかしくなかったのを、弘前城をはじめとする文化財が多いことで思いがけず空襲を逃れましたし、わが相馬村では食糧に困ることなく「すいとん」を食べた記憶もない高齢者がほとんどというくらい戦争の傷跡の少ない土地柄ではありますが、だからこそ余計に戦争を振り返る機会を大事にしなくてはならないと思うのです。
まあ、今の市政にそれを望むのは、旧師団長官舎をあろうことかスターバックスにしてしまうような仕打ちができるくらいですから、まさに負け犬の遠吠えでしかありません。

それでも私は、二人の祖父とも憲兵を務めていたという軍人の血を受け継ぐ者として、とりわけ父方の祖父は満洲に夢を託して中枢にかかわり70年前のその日に京城=ソウルにいたおかげで処刑を免れて帰国できた人だけに、皇国日本とあの戦争の罪を考えずにはいられません。
その思いを胸に刻んで、明日を迎えたいと思います。

2015.07.24

【時評】「ジパング」再読

寝苦しい暑い夜が続いているせいで、かわぐちかいじ「ジパング」を読み直しています。
2000年から9年間にわたる連載が43巻のコミックスとなっているのですが、あらすじとしては海上自衛隊のイージス艦「みらい」がタイムスリップして太平洋戦争の分水嶺となったミッドウェイ海戦の最中に現れるところから歴史の歯車が狂いだしていくというストーリーです。

まず考えさせられるのは、自衛隊が戦闘に巻きこまれるとどうなるかを描いていることです。
連載当時は今よりも周辺事態に危険を感じてはいないご時世だったわけですが、それをふまえて「みらい」の乗員は専守防衛の意識に塗り固められており、可能な限り敵味方にかかわらず生命を尊重する行動で対処しようとします。
その意識と実際の戦闘を体験したことがないがために旧式ながらも命がけで向かってくる相手に対応しきれずに落命したり、最低限の被害にとどめながらも相手を死なせていく体験を重ねていくことで、一時的には帝国海軍と共同作戦を取るところまで進んでいきます。
今国会で論議されている戦争法案が成立することになれば、集団的自衛権による後方支援に徹すると言っていても後方支援の兵站こそ狙われるのが戦闘の常識と聞くことがありますし、そこで戦死者が出た場合に現場で応戦しないわけにはいかなくなったり敵を取らねばという思いが強まったりすることで、自衛隊員が兵隊の気持ちになってしまうのが不可避であるのを、先んじて描いているのを今さら理解したところです。
私個人はこれから成人していく坊主がいる立場として、単に戦争反対というより息子を戦場に行かせるわけにはいかないという思いが強いのですが、法案成立でリスクが高まるのは現役の自衛官なのですから、専守防衛の思いで就役しているはずの人たちが今どんな思いで国会審議を見守っているのか、気になるところです。

そして、時代が太平洋戦争のど真ん中、舞台は連合艦隊や満洲国果てにはナチスドイツまで拡がるスケールの中で、戦争とは何かを描こうとしているストーリーは、その戦争の敗戦から70年という節目の年だからこそ読まれる意義があると思います。
いきおい軍や政治にかかわる顔ぶれが連なり、そこに作者のひいきが加わってのフィクションですから一面の歴史物語であるのはまぎれもない事実ですが、単なる教科書的記述や年表的知識だけは身にしみて感じたり考えることにはつながらないだけに、このような入口があるのは大事なことだと思います。
そこから、この節目の年に戦争の事実を伝える書物(「永遠の0」のような付け焼き刃のフィクションではなく)を手にしたり、身近にいる数少なくなった戦争体験者からお話を聞くといった学びにつなげてもらえればと思います。

あなたは、戦争を知り考えるために、どんな本をすすめますか?

2015.06.27

【時評】忍びよる言論弾圧

25日に開催された自民党有志による「文化芸術懇話会」なる会合での国会議員および講師を務めた百田尚樹の発言が問題にされています。
マスコミに圧力をかければいいとか沖縄の地元紙2紙を廃刊に追いこめとか、果てには米軍兵によるレイプ事件や普天間基地の回りにすむ人たちまで持ち出しての妄言の連続だったのは宮武嶺さんのBlogが一番詳しくまとめていますが、自民党からのマスコミへの圧力に関してはこればかりではありません。
この会議にも出席している萩生田光一・自民党総裁特別補佐が昨年末の総選挙の際に、「公正中立な報道を」と文書での通達を出していることからも明らかで、これは議員個人の発言や考えではなく党としての文書なのですから、今回の懇話会も有志の集まりだとして総裁である安倍総理が逃れようとしているのは卑怯な話ですし、不利と見れば「朝まで生TV」への出演を避けるのですから姑息としかいいようがありません。

これにマスコミが屈しないという姿勢なのであればまだよいのですが、実際には百田氏が委員を務めるほどおかしくなってしまっているNHKでは阿部再選の応援団結成とだけ伝えて妄言はスルーされていたそうですし、読売もオブラートに包んだ内容、さすがに朝日は繰り返し詳しく報じていますが、一番早く伝えているのは日刊スポーツだというあたりに、マスコミの温度差と動きの鈍さを感じてしまいます。
先日の沖縄慰霊の日に関する報道でも、外国人記者がなぜNHKは安倍総理に「帰れ」コールが浴びせられたのを報じないのかと疑問をぶつけたことが話題になっていましたが、その記者たちによって世界中では安倍政権の危険性・特異性が伝えられているのに、日本ではニュースにもならないということからして、すでに言論弾圧が進んでいると思わざるを得ません。
これが怖いのは、報じられないことで事実そのものから国民が隔離されることですが、戦前の政党政治の崩壊の流れを思い出しても、血盟団事件、5.15事件そして2.26事件と郡部や右翼の暴走がエスカレートしていったにもかかわらず、国を思う気持ちはわかるなどと甘やかして国民もまたその雰囲気にほだされてしまったように、こういう問題はとっかかりで歯止めをかけないといけないのです。

いわゆる戦争法案も明らかに違憲ですが、これは存立危機事態が起きなければ発動できないものである(これも甘い考えかも知れません)のに対して、今回の問題は言論の自由という日常生活にかかわる重大なことで進行形で憲法を侵害しているのですから、より強い危機感を持って臨まなければならないと思っています。


付記:「かく語りき」と銘打った原点に返って、これから週刊で時評を綴っていくつもりです。

2015.05.26

負けを認めるということ

落選して1ヶ月、GWはとっくの昔、敗戦処理も済んだのですから、次の身の振り方を決めていなければならないだけの日数がたっているのですが、そうもできない事情もあって、最近は1日1冊の読書に明け暮れています。

この4年間の中で取り組もうと思ったことに、梁山泊!と銘打った中高年の就労支援プロジェクトがありましたが、そのことを思い返させるできごとがあったことから工藤啓・西田亮介『無業社会』に手がつき、この無業を生み出す社会の病理を考えるために本田由紀『もじれる社会』、内田樹『下流志向』と読み進んだところで、杉崎隆晴『競争の現代的意味』に出会いました。
この方は、弘前市在住でスポーツ心理学を専門とされており、先日の市議選にも深くかかわっているのですが、スポーツが持つ競争という視点から見た、学問・経済そして政治における真正な競争の不在、スポーツマンシップやフェアプレイの精神がないことによる問題点を鋭く博覧強記に掘り下げており、なぜ市政に問題提起しようと思ったのか理解できただけでなく、これだけの方がまったく注目もされず活躍もできないという不可思議な現実があることに反省と疑念を覚えました。

これは弘前市だけではなく日本全体の問題と思いを強くし、さらに『偽りの戦後日本』『日本戦後史論』と続けて読んでいますが、両著で対談している白井聡さんは『永続敗戦論』というデビュー作で注目を集める新進気鋭の政治学者です。
白井さんは、敗戦を終戦と呼び換えたばかりでなく、戦時中の政治経済の中枢にいた者たちが対米従属を通じて対米自立を果たすという方向でそのまま戦後の舵取りをしてきたことで、真の敗戦の反省が生まれなかったことを喝破しています。
杉崎さんの競争においても、必ず勝者と敗者が生まれるわけですが、そこで負けを認めないで済めば気は楽かも知れませんが、次にどうすればいいかを真剣に考えることからは離れてしまいますし、国として戦争に負けたことを認めずにきたことのツケを払うどころかなかったこととして戦争できる国にしようという総理大臣とお友だちまで出てきてしまうのですから、改めて間違いの大きさと立ち戻る勇気が必要だと思います。

そこで翻って我がこととしての負けということを考えてみると、選挙に行く人たちの特性を考えずに戦術を組んだことが何よりの敗因だと、これらの著作からも改めて学んだところです。
日本人のおよそ8割が受け身の態度で生きており、戦争に引きずりこまれた被害者と思っていたり、下流として生きていくのに甘んじてしまうような「ボーッとした」感覚で、競争することとは無縁の存在であって、選挙の際も政策の良し悪しや実行力などを検討することもなく「○○から頼まれたから」「地元だから」という主体性のない立場で投票するのがわかっているのに、当選後のしがらみの活動のために政策を訴えて人に頼らないという正攻法すぎる戦術では太刀打ちできないのは当然です。
こうしてみると、8年前は若さもあり福祉施設経営者として関係者からの支援もあり、そして親族をあげての態勢があって何より親不孝のレッテルも貼られていないというプラスがあったわけですし、私の嫌いな野村克也監督の言葉ですが、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのは真実だと得心します。
それでも私がやりたかったのは、この状況この戦術でも支持してもらったという実績を生み出し、そこから新時代の議員としての活動をスタートすることが市政を変える第一歩であるべきだという思いからでしたので、負けを認めた上で然らば市民の意識を変えるにはどんな手を打つべきかを考えてみるのが筋だと思っていますし、そこに同じ思いを抱く杉崎さんのような方とめぐり会っただけでも選挙を打った甲斐があると思っています。

もう一つ、負けを認めることでは、私に手本を示してくれた祖父のことを思い出します。
以前にも書きましたが、祖父は曾祖父との折り合いが悪かったこともあり、家業の農業を嫌って軍人となり憲兵まで務めた後に満洲国建国に深くかかわり、敗戦して引き上げてからは恩給で生活しながら孫である私の面倒を見てくれていました。
敗戦必至の情勢となって、自分を引き立ててくれた溥儀皇帝の侍従武官長・工藤忠が3月に引き上げた際も「日本が負けるわけがない」と突っぱねるほど神州不滅を信じていたのだそうで、39歳で夢破れてからは農業はもちろん定職にも就かず教養人として教育委員や議員といった特別職のみで過ごしていましたが、これは一つの負けを認めた生きざまだと思いますし、私にとっては将棋や書道を教えてくれたり軍隊時代の八甲田山遭難事件の弔い行軍の話を教えてくれる威厳のある祖父でした。
ただし、そのせいで商家の生まれで農作業のできない祖母は役立たずとして離縁させられ、その恨みもあって父は祖父を憎み、そのせいか農業もその後のタクシー会社も立ちゆかなくなる前にやめるという負けから逃げる生き方をしてきただけに、私が乾坤一擲の勝負をすることも理解ができないのだと思います。
一説によれば、安倍晋三は父方の祖父は大政翼賛会から非推薦とされた反戦代議士だったにもかかわらず父・晋太郎とそりが合わないことで母方の祖父・岸信介を追慕しているのだそうですが、同じ父嫌いで祖父が満州にかかわるという同じ境遇でも、負けを認めたか、そこから何を学んだかでこれほどの思索の違いとなるのですから、正しく学ぶこと深く考えることの大切さを思わずにはいられません。

さて、思っているばかりでは自分自身も世の中も変わりません。そろそろ、動くといたします。

2014.08.15

酒田、花巻、そして弘前

敗戦の日、短い帰省を終えて二日後の語学留学の準備をする娘を酒田に送ってきましたが、今日もその途上で満州事変を引き起こして日本を戦争の道に引きこんだ石原完爾の墓所を通り過ぎました。
4年後の1949年の同日に亡くなったので命日でもあるだけに、墓参がかなわなかったのは残念でしたが、戦争と国のあり方を考える上でも避けて通れない鍵となる人物だけに、遅く帰ってから宮下隆二『イーハトーブと満洲国』を読み直しました。(これが難しいという人には、江川達也『マンガ最終戦争論』もあります)
石原完爾と宮沢賢治、イーハトーブという物語の世界の理想郷と五族協和を理想に掲げた偽国、まったく異質のようで実は日蓮宗・田中智学の教えを汲むという共通点があり、それが弘前とも無縁ではないことをまとめておきたいと思います。

石原完爾は、満州事変を周到に進めただけでなく戦火不拡大の方針を曲げさせて後の日華事変そして太平洋戦争へと進めたA急戦犯以上の存在ですが、東条英機と反目していたことで戦犯から外されたと言われています。
また、そのことで罪が消えるわけではありませんが、日華事変では不拡大を唱え、226事件では徹底討伐を進めるという違う姿勢を見せただけではなく、戦時中から東亜連盟を組織して日本が中心となって最終戦争後の恒久平和の世界を作らなければならないという活動を起こし、戦後もその活動が盛り上がるのを怖れたGHQから1946年に解散させられた知られざる歴史を持っています。
この『最終戦争論』には弘前市出身の伊東六十次郎氏の思想が強く影響していたこともあり、石原の地元である酒田市を中心とする庄内地方に次いで東亜連盟の活動が盛んだったのは弘前市であったことも隠されて忘れられようとしていますが、以前から石原完爾に関心を持っていただけに今年から酒田に何度も足を運ぶようになってからは、東亜連盟の歴史を掘り返すことをしていかなければならないと強く思うようになりました。

一方、宮沢賢治ですが実は何度か弘前市にあった連隊所属の弟の陣中見舞いのために何度か来弘した記録が残っており、5月にはわざわざ演習地であった岩木山麓・山田野の敞舎跡を訪ねるツアーに参加して、その足跡を知ることができました。
来年はそれから90年となるのだそうで、有志で記念のイベントを企画するということも聞いていますので、弘前の人間として協力できることがあればと思いますし、市内にも第八師団関連の建物で残っているものがあるだけに、軍都としての歴史を知る機会も必要だと思っています。

時代を逆行させて戦争への道を開こうとする安倍政権へのアンチテーゼとして戦争とは何だったのか考えるためにも、弘前として戦争を通じてかかわりのある石原完爾と宮沢賢治をもっと学ぶ必要があると思います。
蛇足ながら、私にとってはLM議連時代に一番お世話になった佐藤丈晴さんが酒田出身、政治と審査支援を通じて親交のある高橋博之さんが花巻出身だけに、個人としてのつながりのバックボーンにより大きなものがあるのではないかという思いを強くしているところです。

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