2017.05.15

最後の総会で見送り

弘前市町会連合会総会に6回目の出席をしました。
毎年恒例のこととはいえ、前任の神忠男さんから阿部精一会長に体制を一新しての初めての総会でしたが、文化センターの大ホールの半分にも満たない参加者と、変わりばえのしないいつもの質問者という流れでしたので、大きな混乱もなく16:00前には閉会を宣言する、低調な総会でした。

私自身は、今年が最後の総会でしたので、おとなしく聞いていようと思っていたのですが、今年度の活動方針として「ごみの減量化とリサイクルへの協力」というのが掲げられてあり、それについて先に質問した方があったものの納得のいく回答ではなかったので満を持して挙手した矢先に、議長役の町会長から「今年もたくさんの意見をいただきましたので、このへんで」と機先を制されてしまい、苦笑しながら席に戻りました。
先に質問した方は、市から今後提案されてくるごみの有料化に対してどう対応するのかとたずね、阿部会長からはまだ市の方針が定まっていないので提案があった場合には理事会で協議するという答えでしたが、私が追っかけで質問し提言しようと思っていたのは、実際のごみの収集量からして対策を打つべきであるのは一般の家庭系ごみの前に事業系ごみであるのは明白であり、連合会として前倒しでごみの減量目標をクリアするかわりに有料化を食い止めることを申し入れるということでした。
今回の総会では阿部会長が先頭に立って答弁するのが目立ちましたが、実際の活動の中でも市が動くのを待って考えるのではなく、先に自ら動いて市の結論にプレッシャーをかけるくらいのアクションが求められていると思いますので、今後の阿部会長の手腕に期待したいと思います。

終わってからの懇親会には先約があって参加しないことをわびて会場を後にしましたが、5万世帯を超える町会を代表している会だけに、創設した故鳴海修先生が唱えた「自主独立」を堅持しながら、これからも市民自治の中核組織として奮闘していってほしいと思います。

2016.11.24

ゴミ有料化説明会に出席

相馬地区で開催された、「ごみの減量化・資源化意見交換会」に町会長として出席しました。

こういう名称になってはいますが、9月に答申されたゴミ有料化に関する説明会だというのは衆目の一致するところで、市からは都市環境部長と秋元哲課長を筆頭に環境管理課一同で応対する形で、課長からの説明30分と1時間の意見交換という流れで進められました。
最初にあいさつにたった都市環境部長によれば市の方針はあくまで白紙であり市民からの意見を聞いて決定していきたいということでした。続く秋元課長からの説明では、家庭系ごみでは一人あたり全国の1.15倍、事業系ごみでは何と1.85倍ものごみを排出しているのだそうで、それによって市の一般会計予算の約4%にあたる32億円の予算があてられているのだそうです。
それをふまえて、9月には家庭系ごみの有料化が有効だとする答申が出されたわけですが、引き続く意見交換会では市としては減量化・資源化への取り組みから有料化へと進めていく段取りを考えていたようですが、いわんとしているものが伝わっているだけに市民からの質問もいきおい有料化にふれるものが多くなり、途中で秋元課長がなぜ有料化を検討しているのかをぶっちゃけで説明し直す場面もありました。

ラス前で発言する機会を得た私は、事業系ごみに関しては全国平均に近づけるために現行料金から倍増させて事業者に危機感を持ってもらうこと、家庭系ごみに関しては再来年といわれている有料化は先送りにし、まずは市から緊急事態宣言を出した上で3年後をめどに全国平均以下となる町会は無料を継続することを提言しました。
これに対しては、課員から町会ごとでは平均を出せる体制ではないことが弁明されましたが、市全体ではなくエリア単位での数値を出す努力はしていきたいとの回答でした。
他の参加者では、有料化への疑問を次々と並べ立てる方、ごみ出しの非常識を持ち出して有料化に賛同する人に的外れな発言をする人など、さまざまな意見が出されて、20:00を少し回るところまでかかる形となりました。

この後、意見交換会はヒロロで2回・岩木館で1回行われるそうですので、市民の皆さんにはぜひ足を運んでいただきたいと思いますが、部長の話どおり市民の意見が通って有料化先送りとなってほしいものですが、市民の意に反して市長提案どおりに議決してしまうのが今の市議会だけに、ごみ有料化の件は注視していきたいと思います。

2016.11.23

圭一郎先生が教えてくれた違和感

弘前市の教育長を約10年にわたって務められた佐藤圭一郎先生の通夜に参列しました。
残念ながら、その時代のことは知らないながらも、相馬小の佐藤正憲校長の父上であり、母校・弘前高校の大先輩として創立130年の祝賀会では教員時代の思い出をご講話いただいた、私たちにとってなくてはならない先達を見送ることは、返す返すも残念なことです。
今夜は折からの雪降る天気で余裕を持って出たはずが行列になってしまう時間にぶつかってしまい、ようやく会場いっぱいの最後列まで足した列に座ることができるくらいの参列者であふれ、宝積院の太田住職が導師を務めた通夜は、佐藤校長の父の思い出と最後まで語り合いたかったという無念で言葉に詰まるあいさつで終わり、私も感慨にふけりながら帰路に着きました。圭一郎先生のご冥福を改めてお祈りいたします。

ところで、読経の途中で弔辞を拝読する段になり、市の功労者への感謝をこめる立場で葛西市長が壇に立ちましたが、まさに通り一遍のお悔やみを短く並べた内容で、わざわざ市長が弔辞を述べる必要があったのか、違和感を覚えました。
考えてみれば、葛西市長は一中卒業後は津軽海峡を越えて函館高専に進み、その後は県庁職員として勤務してきた来歴なのですから、圭一郎先生が教壇に立っていたことも教育長としての手腕を振るっていたことも、遠い世界のできごとのようにかかわらずにきたわけですから、それも宜なるかなとは思いますが、同時代の弘前という地域で生きてこなかったことで共有できないものがあるのを露呈してしまった感があります。
私からすれば、前職を破って当選し、アクションプランを掲げてスピード感ある市政を展開してマニフェスト大賞を受賞した1期目とは違い、2期目に際してはマニフェストづくりをおざなりにして、弘前城の石垣修理を口実にしては陣羽織の格好でお出ましになる姿ばかりがニュースで流れるのを見るにつけ、その変節ぶりというか殿様気分ばかりが目につきます。
そうした外見ばかりでなく、2期目の公約として介護保険料を据え置くと広言したのを昨年度から実行していますが、そのツケが再来年の4月に大幅な引き上げにつながっていくのは間違いなく、もし仮にその時期に行われる市長選に出馬を見送って次期市長に引き継ぎさせるのであれば、まさに責任逃れというほかありません。
目立ったことが大好きな葛西市長ですが、イヤなことには頬被りで逃げるのであれば、アウガ問題で任期半年を残して辞職した青森市の鹿内市長と何ら変わらないことになってしまいますし、弘前市も再び混迷してしまうことになってしまいます。

政治の場から離れている私ですが、市政の問題を我がこととして考えなくてはならない時期が近づいているようです。

2016.05.16

紛糾の町会連合会総会の先に

5回目となる弘前市町会連合会草加に出席しました。
会場の500名を超える文化センター大ホールに、全324町会のうち180余名の出席でしたので、半分以上が空席という閑散とした雰囲気でしたが、ある議案のために白熱というべきか紛糾する一幕がありました。
それは、自主財源確保のためにこの数年徴収されていなかった世帯ごとの負担金20円を徴収するというもので、約53,000世帯ですので106万円となるのですが、その是非だけでなく予算の前に提案されたことで議論そのものが錯綜してしまいました。
反対の意見には、ごみ袋販売の特別会計からの繰入金が100万円減額されて、その分が留保金として残っているというのでは今期の財源対策としては必要ないというもの、ようやく町会交付金が650円から700円に増額になったのに、そこから20円差し引くのでは苦しい町会運営に差し障りがあるといった至極まっとうなものがあり、採決の際は私も反対に回りました。

おかげで、例年であれば16:00前には終わるのが17:00を回るほど長引いてしまい、その後の審議で発言するのは気が引けるところでしたが、意を決して基本方針の中に残っている「りんごを食べる日」について、もう一つ地域コミュニティ強化プロジェクトチームによるFacebookページについて質しました。
「りんごを食べる日」に関しては、毎年のように質問していて、昨年は大谷事務局長から来年度には消しておくのでと言質をいただいていたのでふれませんでしたが、何と今年も生き残っていただけに、市長交代してから有名無実となっているだけに農業振興への協力といった文言に修正すべきだと迫りましたが、神会長からは外すつもりはありませんとつっぱねられました。
また、Facebookページですが、「いいね!」している人が155人で、更新されている内容も他からシェアしているものが多く、これで町会活動に関心を持って加入してもらうという目的は果たせるはずもありませんし、そんなことより毎月の理事会の概要といったことを報じて、活動内容が見えるようにしていく方が有意義だと思うのですが、そもそもFacebookをやりそうにもない理事諸氏に期待してもムダとしか思えません。
そこに関心を持っているのは大谷事務局長には受けとめてもらっただけに、旧知の阿部精一新会長に打開策を講じてもらいたいものだと思っています。

何はともあれ、町会長としての任期は残り2年、その間に町会連合会改革でできることに取り組みたいものです。

2015.10.19

福祉の浦島太郎にならないために

県職員時代からお世話になっている山内修さんからFacebookでの招待をいただいて、「障がい児・者差別解消推進セミナー」に参加しました。
内容としては、来年4月から施行となる障がい者差別解消法について知るとともに、この機会に障がい児・者の置かれている現状を語り合うというもので、会場の青森市社会福祉協議会が管理している「しあわせプラザ」に入るのも何年ぶりかで、旧知の福祉関係者や支援というより交流してきた障がい者の姿もあり、こういう方々とこういう場所で活動していた時代が懐かしくなりました。

法の内容と問題点についてはこれまた旧知の沼田徹弁護士から、法制定の経緯と意義、登場人物としての障害者・行政・民間事業者の区分、不当な差別的取り扱いと合理的配慮の不提供という二つの差別を禁止する内容、最後に差別の具体的な定義がないこと、罰則規定がないこと、支援地域協議会を設置することが求められているものの権限があいまい、意思の表明の支援という課題について詳しく説明がありました。
続いて、自閉症児の親、知的障がい者、身体障がい者それぞれの立場からの報告と、それに応える形で青森市障害者支援課長も発言して、最後はフロアを巻きこんでの熱いやりとりが展開して、現実社会で暮らす中でどのような苦労を背負わされているか、どんなことを行政に改善していってもらいたいか、非常に伝わる内容となりました。
その中で協議会にからんでは、近年は社会保障にかかわる法が制定されるたびに協議会設置がセットになっているそうで、高齢者や障がい者の虐待防止法ばかりでなく、私が梁山泊!を通じて支援したいと考えてきた孤立無業=SNEPを対象とする生活困窮者自立支援法でも同様だそうで、支援課長からは役割や顔ぶれが重複していることが多いので総合的な協議会の部会という立ち上げ方もあるという話題もありましたが、介護や年金といった目につきやすい制度以外でも大きく動いているものがあり、それがまだまだ現実に対応できていないことも知ることになりました。
その例として、意見交換でのテーマの一つとなったものにタクシーチケットでの障がい者割引があり、青森市では48枚のチケットが支給されるものの、手帳の提示以外に氏名電話を伝えることを求める会社や運転手がいるという対応のまちまちさや個人情報保護の観点からの問題をそれぞれの立場から論じていましたが、弘前市では今年度までは24枚の支給で来年度からは介護保険などでの乗降介助・ケア輸送を使えばよいと廃止されることになっているようですし、彼我の問題レベルの違いを情けなく思いながら聞いていました。

タクシーチケットの件は議員再起の際には取り上げなければならないことだと思っていたものの、今の身の上ではあたる権限もないと捨て置いてしまっていたのですが、福祉の浦島太郎にならないためにもかけ合ってみようと思います。
そもそも、議員だったら動かせる、一市民ではどうにもならないでは、皆さんおかしいと思いませんか?

2015.10.10

これが教育委員会のやり方か!

先日、小中教育改革の意見交換会に出たことはお知らせしましたが、その報告がアップされたようだったので見にいったのですが、これぞお役所仕事の典型でした。

そのページには、相馬地区で配布された資料と当日の概要をまとめたという「かわら版」がアップされていましたが、掲載されたのは3つのやりとり、そのうち言いたい放題の私の分は特認校という一番差し障りのないもので、コミュニティスクールの早期導入や朝陽・青柳小の統合ではなく相馬小との統合で、合併したことで旧来の枠を超えて土地柄が近いところでの統合を進めるべきという、今後の論議に大きくかかわる問題は削られていました。
当日の説明の際に発言を紹介することがあるとはしていましたが、こういう取捨選択では平穏無事に会が終わったかのように見えますし、これから予定されている朝陽・青柳小も含まれる四中学区での意見交換会にも反映されない形になってしまいます。
まさに、事なかれ主義で自分たちに不利な情報は出さないというやり方で、「これが教育委員会のやり方か!」と叫びたくなります。
小中一貫教育や弘前市ICT3点セットといったことも今後の教育にとって大事なことではありますが、やはり地域の核である小学校を統廃合するというのは何より重い意味があるだけに、この問題に関する声をなるべく伝えるべきだと思います。

この件、教育委員会に修正版の発行を求めるとともに、それがかなわなければ四中学区の意見交換会に相馬からの声を届けるために出席しようと思っています。
教育委員会、覚悟せよ!

2015.10.07

正体不明の告発者に告ぐ

昨年の今頃にも怪文書が送られてきたのですが、またしても山本昇経営戦略部長にかかわる文書が送付されてきました。

就活中の弘大生と名乗って、市役所への就職を考えているが人事権を握っている部長は県から来た若輩者で任にたえない人材だと聞くと志望できないで悩んでいるとしていますが、宛先の住所が町名変更の前のものでしたし、この時季に新緑といった時候のあいさつが入っていたりと、おかしなものでしたし、書かれている内容も確認もできないことばかりですので、公開する気にさえなりません。
さらには、返信先が大学の寮の事務室とされていたので電話してみるとまったく感知していないということですし、同封されていたものに「我々が、プライドを持って働ける職場を取り戻したい。」とあるのからすると、学生ではなく現職で働いている市職員と考えざるをえません。

職員が不満を感じているのであれば、まず動くべきは労働組合ですが、その役割を果たせないのであれば何の意味もない団体です。サヨクな私ですが、こういうことだから労組はキライです。
また、課長級以上であれば会議の場で申し入れるのが筋だと思いますが、そういう批判ができないのでは風通しのよい職場とは言えませんし、そういう話を仄聞はしています。
だからと言って、名も名乗らず怪文書だけで何とかしてほしいというのは、あまりに虫のいい考えですし、本人から話を直接聞いて納得できるものでない限り、私が動くことはありません。

酔っ払いでもケンカするときは「表に出ろ!」となるものです。ましてや、相手に非がありただそうとするなら、表沙汰にして戦うべきです。
それなら私も、そして市民も助太刀するに違いありません。

2015.09.13

古川謙二さんに一期一会を学ぶ

古川謙二さんの通夜に参列しました。
古川さんは元市職員ではありますが、議員在職時には直接の接点はなかったものの、昨年の夏に「修故創新塾」と銘打った弘前市の故事を学び未来を創るための勉強会のスピーカーとして参画してくださったご縁があり、その際は本当にお元気そうでしたので、まさかの訃報に驚いての参列でした。
喪主のあいさつによれば、末期の肺ガンと診断されたのが昨年11月のことだったそうで、それ以来入退院を繰り返してきたのだそうで、古川さんにしてもスピーカーを引き受けた際には思ってもよらぬことだったことでしょう。
その際に語っていただいた子ども会連合会のことやご縁は一番大事なものだったようで、弔辞を読んだのも当時からの仲間の一人でしたが、それだけ大事にされていたことを直接教えていただく機会をいただいたことは、今にして思えば、まさに一期一会というものでした。

古川さんが鳴海修先生の見守りを受けながら高校生ながらに連合会会長として活躍し、全国に「ひろさき方式」とまで賞賛された子ども会活動ですが、今となっては形骸化してしまっており、それは古川さんにとっても心残りのことだったと思います。
その当時のことは、修故創新塾に古川さんを仲立ちしてくださった前田みき先生や先日伊東六十次郎先生のことでお世話になった小笠原豊かさんといった仲間の方々から学ぶ機会をいただくことはできますが、すでに子ども会世代を過ぎた子の親という立場になったとはいえ、自分たちが学んだものを今できるところで形にする努力をした上で、次の世代に伝えていくしかないと思っています。
それは、「子どもたちの笑顔あふれるまち弘前」という今の目標にとっても、当時の「弘前方式」から学ぶべきことはたくさんありますし、何といっても子ども自身が主役となって子ども会を運営していくという自主の気風が今こそ必要だと思うからです。

古川さん、お疲れ様でした。一期一会の教えを必ずや生かしていきます。

2015.08.30

市民が主人公の市政にするには

陸上大会が参加者の増加もあって時間がかかり、30分遅れで「市民が主人公のみんなの会」主催の中嶋信先生の講演会に、ジャージのまま出席しました。

中嶋先生は、弘大人文学部の卒業で徳島大学名誉教授、現在は東日本大震災に寄りそう思いで宮城県大崎市に居を移して活動されている方です。
前段の聞き逃した大半の部分は安倍政権の地方創生政策の批判だったようで、まとめとしては地方自治体が地方版総合戦略を策定する上で国の戦略を勘案するという縛りがあり、地方自治の本義を崩壊させる悪政であると喝破していました。
もう一つのテーマである弘前市の最新の総合計画「弘前市経営計画」については、ボリュームで圧倒しているものの、「子どもたちの笑顔あふれるまち弘前」を実現させるための政策事業が見えてこないと斬り、これに対して上越市の農業基本計画を引いて具体的な指標を掲げて取り組んでいるとし、こういう形にしていくには市民からのアクションが必要であるとして、現在住んでいる大崎市での「あったか宮城・大崎の会」で開催している市民フォーラムのことを紹介してくれました。

質疑に移ったところで最初に発言させていただき、経営計画審議の傍聴をした立場から構想や総合戦略ばかりでなく個別の事業まで議決している珍しい総合計画であるのに、その大事なところの議論をはしょって粛々と承認する形になった議会の責任を指摘したところ、参加していた共産党・越市議が「審議においては計画の方向性を論じるのに重心を置いて、個別の事業のことは予算などで質していけばよいと思っていた」と回答しましたが、同様に全文を議決する形式となって初めての県総合計画が議会から何の注文もつかずに通ったのを幹部として見てきた葛西市長からすれば、事業を議決する重さを認識していない議会の怠慢を見透かしていたに違いないと切り返しておきました。
その後の発言でも、タクシーの無料チケットが廃止されるのを何とかできないのかといった切実な声や、この会で5月に市の出前講座をお願いして経営計画を勉強したところ、農業よりも第3次産業重視だと言われて腑に落ちなかったといった、市民から見た市政の問題点が出されていて、これと議会のぬるま湯さのギャップが浮き彫りとなりました。

最後に会の代表から、自分たちも選挙近くにならないと動かないのを反省しないといけないとあいさつがありましたが、中嶋先生もチェックするという意味では決算が大事だとおっしゃっていたとおり、ちょうど決算審議がはじまるところですので、これを市民が集まって個別の事業ごとに成果が出ているのか継続すべきか見直すべきかを精査するような活動ができれば、市民からの提言も重みを増して市政を動かすこともできると思います。
私が考えるシンクタンクも、まずは今行われている政策事業の評価があってこそ動くものだけに、主催団体の名前のとおり市民が主人公となる市政実現のために、できるところから活動していきたいと思います。

2015.08.27

松陰室で床下村塾を知る

先日の叔母からの聞き取りで養生会とのご縁を知りましたので、以前から関心のあることでもありましたので、代表である小笠原豊さんにお願いして、お話をうかがうことになりました。
養生会は、その名のとおり市内のど真ん中・元長町にある養生幼稚園に本部があり、そこには幕末の吉田松陰北雄の際に地元の蘭学者・伊東梅軒と語らった松陰室があります。
思想家としての松陰を尊奉する私ですが、一昨年は縁あって萩の松下村塾や野山獄を訪ねる機会があり感激ひとしおだったものの、これまで地元の足跡をたどる機会がなかっただけに、これだけでもうれしいことだったのですが、小笠原さんのお話はそれにも増して琴線にふれるものばかりでした。
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六十次郎先生のことでは、満洲国から盟友・石原完爾が去った後も大同学院に残って建国の理想実現に尽力されていたのだそうですが、時宜をみては帰弘されたそうで、1944年4月の「松陰祭」の際には公会堂に集まった1000人を超える聴衆を前に反軍演説を行ったそうですが、あまりに理路整然とした内容に特高警察も「演説中止!」とすることができず、その演説後に特高だけを集めてさらに論じたという伝説を教えていただきました。
その際には処分を受けずに済んだものの、翌年に不惑のこの大人物にまで召集令状が突きつけられ、二等兵として従軍したところでソ連軍にとらわれて、それが11年にわたるシベリア抑留となってしまうのですが、その帰還の際には列車が矢立峠を越えて津軽に入ると情報を得た住民が沿線沿いに立ち並んで出迎え、弘前駅から自宅までの道は車が進めないほどだったそうです。
その抑留時代の記録を、ソ連軍に検閲募集されないように二重になっているセメント袋の内側に書き続け、それを帰還する人たちの水筒に丸めて持ち帰ってもらったのをまとめたのが『シベリヤより祖国への書』としてまとめられたのですが、当時仕えた叔母はその清書をしたそうです。
思えば、当時の旧制弘中で数年違いであり同時期に満洲国に暮らした六十次郎先生と祖父の間に交流がなかったはずはなく、それが叔母が仕えるご縁にもつながっているのだと思います。

その六十次郎先生が石原完爾とともに広めた東亜連盟ですが、今となって知る人も少ないものの当時は広く支持を集めていたようで、1945年7月には赤十字社青森支部が講演者として石原を招いて大演説会をするほどだったそうで、その先導役が六十次郎先生の後輩であり私にとっては母校の校長である鈴木忠雄先生というのも驚きですが、未来を見る超能力があったという石原が「この町がなくなってしまうとは残念だ」と月末の青森大空襲を予言したというエピソードまで残っているそうです。
石原というカリスマ的存在があって人は集まったものの上下関係ではなく「自治共同」を掲げる横のつながりだったために、戦後も組織化されることがなく東亜連盟は消えていったというのが後世の評価だと小笠原さんは話されていましたが、その一員であり戦後弘前の自治の基礎を作り上げた鳴海修先生は、そこで得た知識と経験を町会連合会や子ども会の立ち上げに生かされたということでしたので、その理想とするところを学び直すことが今の弘前市にも大事なことだと改めて思いました。

これ以外もたくさんのお話で1時間半も聴き入ってしまいましたが、最後に六十次郎先生はシベリアで書き残す作業を床下でされていたのだそうで、それを「床下(しょうか)村塾」と名づけていたのだそうです。
これは、まさに松陰室に起居されていたこともある六十次郎先生ならではのお話であり、その厳しい抑留生活をユーモアで乗り越えてこられた原動力がここから生まれたのだと感慨深い思いで松陰室を去りました。
まだまだ尽きない津軽と満洲国、そして我が家とのつながりを解き明かすために、これからもご縁をたどっていこうと思います。

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