2017.03.11

津軽で過ごす3.11

6回目となる3.11は、前後の予定をはずわけにもいかず、その時刻に自宅で黙祷を捧げるのが精いっぱいでした。

この一年で、被災地である岩手県野田村にできたことは、4月の二回目となったイベント「津軽衆の日」開催が最大のもので、その後はウォーキングのイベントに何度か参加し、8.11のLIGHT UP NIPPONで花火を眺め、8月末の台風被害には一度だけ片づけのボランティアをしたくらいで、6月の三味線コンサートでは渋谷和生×佐藤ぶん太、の共演という夢をかなえたものの、秋に予定していたジャズコンサートは中止となって、私ばかりでなく津軽からの訪問回数もガクッと減ってしまった感は否めません。
前後の報道を見ても、翌月から避難指示が解除となる浪江町の請戸小学校、最大の死者・行方不明者を出した石巻市の日和山公園、原住地訪問の際に通り過ぎた陸前高田市の一本松など、見覚えのあるまちやものが目につきましたが、死者が千人どころか3ケタにもならない野田村の様子は、まったく伝わってきませんでした。
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NHKでは、当日の特集番組で飯舘村などでの分断の悲劇を取り上げていましたが、自治体の中で起きている分断だけでなく、被災をした自治体間での報道の格差が広がっていく現状は、見えなくなりつつある野田村とかかわっているからこそ見えてくるものだと思います。

それでも、私にとっては被災地というより第二のふるさととなっている野田村とのご縁は続けていきますので、野田村の皆さんにはこれからもお世話になりたいと思います。
この、すばらしい海と山と、そして温かい人たちがいてくれることに感謝し、生涯かけての交流を改めて誓います。
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2016.11.06

上を向いて歩こう

52歳の誕生日を迎えることができました。Facebookでは、200人以上の方々からお祝いのメッセージをいただきました。本当にありがとうございます。

二度目の市議選落選から一年半あまり、この一年は若山経営での参謀としての仕事で生計を立て、5年目となる昴町会長として町会の運営に携わり、息子の高校には再びPTA会長としてかかわっています。
一方、これまでは活動の大きな部分を占めていた震災支援は、東日本大震災から5年経ったところで開催したイベント「津軽衆の日」を節目として、それ以後はパーソナルな形で月に一度は野田村を訪問するのを細々と続けていますし、4月に起きた熊本地震には桜まつりにあわせて募金を募って熊本市の大西市長に送ることができました。大まかにまとめると、変わったようで変わらない日々を過ごしてきた一年でした。
そんな中で、私が一番力を入れてきたことは読書でした。
読書の記録もつけていて、当初はブクログ、現在は読書メーターというサービスを使っていますが、この一年でいえば200冊近い本と出会い、知らなかったことにふれたり、知ったつもりのことで新たな知見を得たり、私の知識のフィールドは大きく拡がり続けています。とりわけ、直近に読了した一冊が心に残るものでしたので、紹介しながら今の自分の思いとあわせて披瀝したいと思います。

その一冊とは、岡田芳郎さんの『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか 』(講談社文庫)でして、内容としては戦後の山形県酒田市の文化に多大な貢献をもたらした佐藤久一さんという方の評伝です。
久一さんは、銘酒「初孫」で知られる酒田の名家・金久の家に長男として生まれ、若くして映画館グリーン・ハウスの経営に携わり、その後レストラン欅やル・ポットフーで日本一のフランス料理を提供してきた方で、1997年67歳で亡くなるまで濃い人生を歩みました。
映画館では淀川長治・荻昌弘という高名な方々から絶賛され、レストランでは開高健・山口瞳そして土門拳という著名人から酒田の人々にまで愛されたほどの事業家であった久一さんですが、次から次へと生み出されるアイデアを形にして名声を得てきたのが、1976年の酒田大火でグリーン・ハウスを焼失すると、その後はレストランで主力であったスタッフを次々と失い、1993年で退陣することになります。
亡くなられてから来年2017年で20年となるわけですが、営々と営業を続けているル・ポットフーですら久一さんの面影を偲ぶ場ではなくなり、酒田の街からは忘れ去られた存在というより、存在そのものが消えてしまっているかのようです。
本の最初でグリーン・ハウス焼失の場面から描かれていたとおり、酒田大火が久一さんの転機となったのは間違いありませんが、その46歳という年齢は私にとっても市議4年目で翌年には落選の憂き目にあい施設の経営からも放逐された時期と符合するだけに、この不可思議なシンクロに自らの半生と重ねずには読まずにいられませんでした。

それから6年、私の人生は沈んだままの位置にあると皆さんからは見えていると思いますが、私自身は苦しいながらも人生の希望を捨てることなく、上を向いて歩いているつもりです。
今年は永六輔さんが亡くなられて、九ちゃんも八大さんも誰もいなくなってしまいましたが、それでも私たち日本人の心に名曲「上を向いて歩こう」の悲しくても明るい歌詞と希望を持たせてくれるメロディーが消えることは決してないと思います。
酒田から久一さんが忘れられていることは残念なことですが、私はその分まで弘前ひいては津軽に爪痕を残していけるよう、生きていくつもりです。

2016.01.02

2016年の所信

新年あけましておめでとうございます。
市議としての再起にかけた2015年でしたが、結果は惨敗、再び落選の憂き目にあいました。
さすがに重ねての武士は食わねど高楊枝のやせ我慢もできず、何をしていけばよいのか途方に暮れました。
そこに人事塾で一緒した若山経営様から声をかけていただき、介護事業者への経営支援にかかわることになって、再起の第一歩を踏み出したところでして、本当に感謝の一言です。

2016年は、ここからさらに幅を広げながら、一度は立ち消えになった梁山泊!を再起動させて、津軽初のフューチャーセンターを立ち上げ、40・50代のおやじの再起ばかりでなくセーフティネット構築をめざしていくつもりです。
捨てる神あれば拾う神あり、今の私にできることから動いていくうちに、新たな道が開けていくものと信じて進んでいきます。
本年も倍旧のご指導をよろしくお願いします。

2015.11.06

放電する51歳、その先に

51回目の誕生日は、月例の野田村でのヨーガ教室があり、帰ってからのお祝いのワインで酔いも回って、300人以上のFacebookでのお祝いに返事もせぬまま寝入ってしまいました。

さて、昨年の今日考えていたのとはまったく違う境遇ではありますが、二度目の市議落選をふまえて次の道をさぐる中で若山恵佐雄さんと再会して、素浪人から食客にすくい上げていただき、「戦略参謀」というソリューションを展開している会社の参謀を名乗って、介護事業所の経営支援にかかわりながら、津軽のセーフティネット戦略を起行する場としての梁山泊!設立をめざすスタート地点に立つ51歳となりました。
若山さんに声をかけていただいたのは、一緒に人事塾(現在は成長塾)の研修を受けたご縁があったからですが、10月にこれまた人事塾そして中小企業家同友会で覚えていただいた蛯沢勝男さんから全国の成長塾の仲間を紹介していただいてみると、参謀としての戦略策定の先には組織の土台を支える人事制度が必要となりますから、かつて人事塾で学んだことが今になって生きてくるのをありがたく思います。
また、梁山泊!はそもそも40・50代の失業したおやじの再起の場として構想したのですが、専求院の村井ご夫妻とのご縁や若山さんが理事を務めるNPO生前契約青森ライフサポートとのかかわりから終活というテーマに接点ができ、一方で社会的包摂につながるこれから制度としての確立が必要となる事業にかかわることで、これまでの福祉・介護での経験もあわせて、自分が得てきたすべてのものを総動員して実現させていくべきものが見えてきたと思っています。
いわば、これまで充電してきたものを一気に放電する「時は来た!」(by橋本真也)のだと確信しています。

これが、この10年で実現させていく目標になりますが、その先60歳からは大学卒業時に封印した歴史の道もっと具体的にいえば津軽のシュリーマンになるという最初にして最後の夢をかなえる動きをしたいと思っています。
そのために、議員時代から大森勝山遺跡の国史跡・世界文化遺産候補地選定に関心を寄せ続けてきましたし、敬愛する今井二三夫さんが立ち上げた「縄文の会」の末席に名を連ねているのも、縄文遺跡にふれる機会を確保したいと思っているからですが、こういった文化資源をしっかりと保全しながら情報発信していくことでの貢献もしたいと思っています。

社会に貢献していくアクションの先に、津軽の文化を掘り下げる夢を持って、折り返し点をとっくに過ぎた人生を歩んでいこうと思います。

2015.09.20

余は如何にして禅宗信徒となりし乎

津軽の人間でありながら、元来が門徒宗(浄土真宗大谷派)ということもあり、お盆や彼岸の禅林街の混雑を体験したことがありませんでしたが、今日の彼岸の入りの日にはじめて足を踏み入れました。
彼岸の中日である秋分の日ではなく、シルバーウィーク5連休ということもあってか思ったよりは駐車も少なく拍子抜けしましたが、これからにぎわいを体験することになるのだと思いながら帰ってきました。
そうです。今日から私は、禅宗(曹洞宗)宝積院の信徒というか檀家となったのです。

もともと実家の門徒宗の寺の坊主は説教をしないどころか読経も下手くそなのに、お布施代を請求書で示すといった葬式ビジネスそのものでしたので、自分の代になったら抜けてやろうと思っていたのが実家と絶縁する形となり、さらに今回の義父の供養をきっかけに考えた末のことです。
私自身は火葬後ただちに散骨して一切の葬儀法要は不要と考えていますが、家族親族がすべてそれを望むわけではありませんし、そこでお寺とのご縁は大事な意味を持ってきます。
社会活動を通じてたくさんの住職の方々とのご縁がありますが、ライオンズクラブで単なる先輩としてではなく一番一緒させていただく機会があり、そのご縁で施設のオンブズマンを務めていただいたばかりでなく、立場を失ってクラブを退会した後でもさまざまなご縁が続いているのが宝積院の太田宏見住職であり、その折々に仏教の教えを説いていただく機会もあり、私が知る中では最高の仏道者であると尊敬しています。
今回の供養でも非常にはからっていただいたことがあり、今こそ檀家にしてもらう好機と思いを伝えたところ、快諾していただいて本当にありがたく思っています。

江戸時代の寺請制度からお寺と檀家の関係はつながっており、分家して故郷を離れても宗派は同じところを選ぶように、仏教の中で宗派を変えることは滅多にないことだと思いますが、仏教が宗教である以上、その教えを信じたり、住職のお導きによって変わるのが本来あるべきことなのではないでしょうか。
秋の彼岸にあたって、皆さんにも一度考えてほしいことだと思っています。

2015.08.15

1995年という節目

70年目の8月15日を迎えました。
もちろん、昭和天皇の玉音放送が正午に流された重要な日ですが、日本がポツダム宣言を受託したのは前日の14日、ミズーリ号で降伏文書に署名したのが9月2日であって、国際法上の敗戦日ではないというのはトリビアな知識です。
この敗戦記念日をふまえて、昨日は安倍総理が談話を出し、今日は戦没者追悼式典で天皇陛下がお言葉を述べられましたが、キーワードを盛りこまざるを得なくなったために談話というには冗長すぎる文章で、にもかかわらず自分の思いがこもっていない内容と棒読みでは、平和派はもちろん右翼からも受け入れられないレベルにとどまってしまったのに対し、陛下のお言葉は簡潔ながら自らと国民の思いを明確に主語にされており、思いの深さと伝えるための形においても、まったく比べものにならないものだったと思います。
この場を借りて、安倍晋三一派以外の国民と同じく、先の大戦の反省とアジアの人々へのおわびを表明し、日本を戦争をしない国として守っていくことを誓います。

それにしても、阿部談話を暴走させずに終わらせたのは、村山総理の戦後50年談話が世界的に評価されており、中韓との関係や公明党への配慮を考えた上でその枠組みを踏み外すわけにはいかなくなったのが大きいわけですが、今から振り返ると1995年という年は、まさに節目の年だったのだと改めて思います。
1月には阪神大震災が起きましたが、それから中越地震・中越沖地震そして東日本大震災が発生し、御嶽山や口之永良部島などの噴火も相次ぎ、これが日本列島を取り巻く地殻変動のはじまりだったわけです。
3月には、オウム真理教による地下鉄サリン事件がおき、バブル崩壊からはじまる今後の社会への不安が無差別テロという形になって暴発し、そこからはじまる社会の信頼感のなさは増幅していく一方です。
そして、自民党が下野する政治的混乱から生まれた自民党・社会党(現在の社民党)・新党さきがけ(現在は消滅)3党による連立政権で社会党から総理大臣となった村山総理は、戦後50年の節目にあたって国会決議ではなく総理談話という形式をもってアジア諸国への謝罪と反省を語ったわけですが、これが安倍一強といわれる独裁的な極右政権が見直しを図っても乗り越えることができないほどの壁となって、平和国家・日本を守る楯となっているわけですから、今にしても大きな意義を持つ談話が出されたのも、1995年でした。
当然ながら、この20年の間に変わったことも多いのですが、前後70年を振り返って未来を考えるよりも、自ら体験してきた20年を足場に改めてスタートする方がリアルなのではないでしょうか。

「もはや戦後ではない」と言われてから生まれた私ですが、いまだに戦後70年と数えられるのが今後も続くよう、平和を守っていくつもりです。

2015.07.31

義父が導いてくれたこと

月曜日に義父が亡くなり、本日葬儀を終えました。

菩提寺である曹洞宗宝積院の住職であり、それ以外のことでも深いご縁をいただいている太田宏見さんに「良光是導信士」と戒名をつけていただき、そのうち「導」には農業指導員として働いてきたことを入れていただいたのですが、その退職間際の頃に跡取りの長女であった妻を無理を言っていただいたにもかかわらず、この20年不肖の婿を導いてくださっただけに、まさに人となりを現す戒名だと思います。
私が選挙に出るにあたっても、誰よりも多く地元ばかりか仕事のつきあいで知っている人のところまでお願いして回ってくださり、今回は体調を崩しつつあった中で最後の力を振り絞って動いてくださって、選挙期間中に石川大橋とアップルロードの交差点で一人街頭演説しているところで「がんばれ」と声をかけてくださったのは忘れることができません。
落選をわびにあいさつに行った際にも、「残念だった」とだけ言ってくださいましたが、選挙のやり方ばかりでなく生き方でも厳しく叱咤した上で私の思いがかなうように尽力してくださった姿こそ、「導」そのものでした。

ところで、今回の葬儀で宏見さんは生老病死の四苦を頂き物だと受けとめなさいと説教してくださいましたが、春先の変調からはじまって老いと病にわずらう姿、そして死を見せてくださった義父ですが、この「導」を通じて私に生の意味をも示してくださっていたのだと思っています。
葬儀にあわせて、宏見さんと同じ曹洞宗の僧であり恐山の副住職である南直哉さんの『善の根拠』を読了したのですが、そこには「なぜ生まれてきたのか、なぜ今ここに生まれたのか」という根源的な問いこそが生が苦である理由であると解かれ、自分を生み出した特別な他者としての親について論じています。
実の父に対しては尊敬はおろか見下した思いしか抱いたことがなく、さらには自分の生活や立場を崩壊させてしまう所業をされてからは絶縁したままですので、なぜこんな者が親なのかとしか思えませんが、義父は叱りながらも受け入れてくれ導いてくださる方だっただけに、私は救われて生きていくことができるのだと思います。
こうして思い返してみても、生老病死の四苦を身をもって現前させてくださった義父は我が師ですし、そのことを気づかせてくださった宏見さんや南さんの曹洞宗に帰依する機をいただいたのだと思います。

お義父さん、あなたこそ私の父です。本当にありがとうございます。

2015.06.20

西江先生は生きている

昨日の夕刊で、文化人類学者・言語学者である西江雅之先生がお亡くなりになったのを知り、「先生!」と声を上げてしまいました。

こう書くと、いかにも尊敬していた恩師の訃報にショックを受けたように思われるでしょうが、あやふやな記憶では大学時代に自分の空き時間に友人が受講していた先生の文化人類学の講義にもぐりこんでいたはずですので、大教室の後ろでダベっている学生の一人を先生が覚えるはずもなく、私からしても会話した記憶すらありません。
それでも、単位にもならないのに受講していたのは、交友関係以上に先生の講義がおもしろく、クレオール語から小泉八雲そこから飛んでスワヒリ語という奇想天外な展開でことばや社会の不思議さと楽しさを飄々とした口調で語る姿に、高校までの勉強とは違う学問のエッセンスを感じたからのように思います。
それだけに、ご自身が気にされていなかったように自分からしても偉いとは思ってみなかった先生が、地方紙の夕刊にまで訃報が載るほどの方だったのに驚いてしまいました。

何の供養もできないので、10年以上も前に買ったまま本棚に眠らせていた『「ことば」の課外授業』を引っぱり出して読了しましたが、そこには講義で話されていた内容もあったこともあり、やさしく言語学を解きほぐす文章から先生の声が聞こえてくる気がして、学生時代を懐かしく思い出しました。
こうしてみると、遺された著作や記憶の中で先生は生きていると実感しますし、直接の薫陶はなくとも恩師と思える先生がいることを不思議にうれしく思います。

それだけ、学ぶこと教わることは奥深いものですし、これからの子どもたちがそんな先生と出会える社会をつくるのが先に学んできた者の責任です。

2015.06.15

「予告犯」の表層批評

ドラマの方を見はじめたのがとっかかりなのですが、その前段となる映画を観ないことにはストーリーがつながらないと思い、「予告犯」を観てきました。
映画としてのできばえを語る才覚はありませんし、これから観る人のためにネタバレにはならないようにしますが、背景に描かれているものが最近読んだ本の内容と重なるものが多かったので、そこに焦点を当てながら今考えていることをお伝えしたいと思います。

生田斗真演じる映画版の主人公ゲイツは、きわめてブラックなIT企業で派遣社員として働いていたのが病に倒れて職を失い、日雇い労働をすることになります。そこで、後にシンブンシとして一緒に行動する仲間と出会い、仲間の一人である日比混血のヒョロの死をきっかけに現場監督を殺害したところから活動を起こします。
彼らの行動はネット予告による公開処刑で、件数を重ねるごとにターゲットが大きくなっていき、それにつれてネット上での支持が広がるのですが、代議士殺害に失敗したところで一転罵倒の書きこみがあふれるという展開を見せます。
原作ではなかった、戸田恵梨香演じる吉野警部も給食費を滞納するほどの貧困家庭に育ったエピソードが追加されていましたが、貧困や派遣労働・ブラック企業と現代日本が抱えている影の部分をバックボーンにした映画だとは思っていませんでしたし、ちょうど『中高年ブラック派遣』『もうブラック企業しか入れない』『失業者・半失業者が暮らせる制度の構築』など、貧困や失業の問題を読み考えていただけに、まさに映画が呼びよせてくれたような気がしました。

それから、Twitterのようなつぶやきやニコ動的な動画へのコメントが流れるのを効果的に使っていて、ネット時代の劇場型犯罪というイメージを増幅させていましたが、そこで私が気になったのは、否定的に受けとめられていたシンブンシが徐々に支持されるようになり、「怒りをぶつけたければ俺に言え」という意思表示でカリスマ的存在になったのが、殺害失敗で一転ボロクソに言われるようになるというのは、小泉劇場や民主党マニフェストに踊らされたB層社会である現代日本をリアルに描いていることでした。
B層というのは、2005年の郵政選挙を取り仕切った広告代理店の造語とされ、「よくわからないが小泉改革を支持すると考える層」という定義ですが、幅広く考えると「生半可な知識を持つが故に、改革といった幻想にとらわれる存在」ということができます。
21世紀の国内政治は、小泉改革では「自民党をぶっつぶす」、民主党の政権交代では「コンクリートから人へ」、そして安倍政権ではアベノミクスや「美しい国・日本」と、ワンフレーズポリティックスによって何かが変わるという幻想が国民を動かしてきましたが、「予告犯」ではネットを使えるレベルのユーザーがシンブンシの術中にはまっていき、たった一つの失敗であっさりと支持が罵倒に変わるあたりは、民主党の政権交代と失敗を思わせます。
これも、『日本をダメにしたB層の研究』『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか』を読んだばかりでしたので、前記の貧困・失業問題を生み出している社会そのものの風潮まで織りこんでいるところに重苦しさを感じました。

ただし、『僕らは…』の著者・荻上チキ氏が最後に自らの活動を紹介しながら希望につなごうとしたのと同じように、「予告犯」でも心のよりどころになるようなセリフがあり、現代日本の諸問題や犯罪映画を超えたメッセージが伝わってきます。
皆さんにも、映画館のスクリーンで確かめていただきたいと思います。

2015.05.26

負けを認めるということ

落選して1ヶ月、GWはとっくの昔、敗戦処理も済んだのですから、次の身の振り方を決めていなければならないだけの日数がたっているのですが、そうもできない事情もあって、最近は1日1冊の読書に明け暮れています。

この4年間の中で取り組もうと思ったことに、梁山泊!と銘打った中高年の就労支援プロジェクトがありましたが、そのことを思い返させるできごとがあったことから工藤啓・西田亮介『無業社会』に手がつき、この無業を生み出す社会の病理を考えるために本田由紀『もじれる社会』、内田樹『下流志向』と読み進んだところで、杉崎隆晴『競争の現代的意味』に出会いました。
この方は、弘前市在住でスポーツ心理学を専門とされており、先日の市議選にも深くかかわっているのですが、スポーツが持つ競争という視点から見た、学問・経済そして政治における真正な競争の不在、スポーツマンシップやフェアプレイの精神がないことによる問題点を鋭く博覧強記に掘り下げており、なぜ市政に問題提起しようと思ったのか理解できただけでなく、これだけの方がまったく注目もされず活躍もできないという不可思議な現実があることに反省と疑念を覚えました。

これは弘前市だけではなく日本全体の問題と思いを強くし、さらに『偽りの戦後日本』『日本戦後史論』と続けて読んでいますが、両著で対談している白井聡さんは『永続敗戦論』というデビュー作で注目を集める新進気鋭の政治学者です。
白井さんは、敗戦を終戦と呼び換えたばかりでなく、戦時中の政治経済の中枢にいた者たちが対米従属を通じて対米自立を果たすという方向でそのまま戦後の舵取りをしてきたことで、真の敗戦の反省が生まれなかったことを喝破しています。
杉崎さんの競争においても、必ず勝者と敗者が生まれるわけですが、そこで負けを認めないで済めば気は楽かも知れませんが、次にどうすればいいかを真剣に考えることからは離れてしまいますし、国として戦争に負けたことを認めずにきたことのツケを払うどころかなかったこととして戦争できる国にしようという総理大臣とお友だちまで出てきてしまうのですから、改めて間違いの大きさと立ち戻る勇気が必要だと思います。

そこで翻って我がこととしての負けということを考えてみると、選挙に行く人たちの特性を考えずに戦術を組んだことが何よりの敗因だと、これらの著作からも改めて学んだところです。
日本人のおよそ8割が受け身の態度で生きており、戦争に引きずりこまれた被害者と思っていたり、下流として生きていくのに甘んじてしまうような「ボーッとした」感覚で、競争することとは無縁の存在であって、選挙の際も政策の良し悪しや実行力などを検討することもなく「○○から頼まれたから」「地元だから」という主体性のない立場で投票するのがわかっているのに、当選後のしがらみの活動のために政策を訴えて人に頼らないという正攻法すぎる戦術では太刀打ちできないのは当然です。
こうしてみると、8年前は若さもあり福祉施設経営者として関係者からの支援もあり、そして親族をあげての態勢があって何より親不孝のレッテルも貼られていないというプラスがあったわけですし、私の嫌いな野村克也監督の言葉ですが、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのは真実だと得心します。
それでも私がやりたかったのは、この状況この戦術でも支持してもらったという実績を生み出し、そこから新時代の議員としての活動をスタートすることが市政を変える第一歩であるべきだという思いからでしたので、負けを認めた上で然らば市民の意識を変えるにはどんな手を打つべきかを考えてみるのが筋だと思っていますし、そこに同じ思いを抱く杉崎さんのような方とめぐり会っただけでも選挙を打った甲斐があると思っています。

もう一つ、負けを認めることでは、私に手本を示してくれた祖父のことを思い出します。
以前にも書きましたが、祖父は曾祖父との折り合いが悪かったこともあり、家業の農業を嫌って軍人となり憲兵まで務めた後に満洲国建国に深くかかわり、敗戦して引き上げてからは恩給で生活しながら孫である私の面倒を見てくれていました。
敗戦必至の情勢となって、自分を引き立ててくれた溥儀皇帝の侍従武官長・工藤忠が3月に引き上げた際も「日本が負けるわけがない」と突っぱねるほど神州不滅を信じていたのだそうで、39歳で夢破れてからは農業はもちろん定職にも就かず教養人として教育委員や議員といった特別職のみで過ごしていましたが、これは一つの負けを認めた生きざまだと思いますし、私にとっては将棋や書道を教えてくれたり軍隊時代の八甲田山遭難事件の弔い行軍の話を教えてくれる威厳のある祖父でした。
ただし、そのせいで商家の生まれで農作業のできない祖母は役立たずとして離縁させられ、その恨みもあって父は祖父を憎み、そのせいか農業もその後のタクシー会社も立ちゆかなくなる前にやめるという負けから逃げる生き方をしてきただけに、私が乾坤一擲の勝負をすることも理解ができないのだと思います。
一説によれば、安倍晋三は父方の祖父は大政翼賛会から非推薦とされた反戦代議士だったにもかかわらず父・晋太郎とそりが合わないことで母方の祖父・岸信介を追慕しているのだそうですが、同じ父嫌いで祖父が満州にかかわるという同じ境遇でも、負けを認めたか、そこから何を学んだかでこれほどの思索の違いとなるのですから、正しく学ぶこと深く考えることの大切さを思わずにはいられません。

さて、思っているばかりでは自分自身も世の中も変わりません。そろそろ、動くといたします。

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