2017.03.11

津軽で過ごす3.11

6回目となる3.11は、前後の予定をはずわけにもいかず、その時刻に自宅で黙祷を捧げるのが精いっぱいでした。

この一年で、被災地である岩手県野田村にできたことは、4月の二回目となったイベント「津軽衆の日」開催が最大のもので、その後はウォーキングのイベントに何度か参加し、8.11のLIGHT UP NIPPONで花火を眺め、8月末の台風被害には一度だけ片づけのボランティアをしたくらいで、6月の三味線コンサートでは渋谷和生×佐藤ぶん太、の共演という夢をかなえたものの、秋に予定していたジャズコンサートは中止となって、私ばかりでなく津軽からの訪問回数もガクッと減ってしまった感は否めません。
前後の報道を見ても、翌月から避難指示が解除となる浪江町の請戸小学校、最大の死者・行方不明者を出した石巻市の日和山公園、原住地訪問の際に通り過ぎた陸前高田市の一本松など、見覚えのあるまちやものが目につきましたが、死者が千人どころか3ケタにもならない野田村の様子は、まったく伝わってきませんでした。
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NHKでは、当日の特集番組で飯舘村などでの分断の悲劇を取り上げていましたが、自治体の中で起きている分断だけでなく、被災をした自治体間での報道の格差が広がっていく現状は、見えなくなりつつある野田村とかかわっているからこそ見えてくるものだと思います。

それでも、私にとっては被災地というより第二のふるさととなっている野田村とのご縁は続けていきますので、野田村の皆さんにはこれからもお世話になりたいと思います。
この、すばらしい海と山と、そして温かい人たちがいてくれることに感謝し、生涯かけての交流を改めて誓います。
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2016.09.19

野田村でボランティアする理由

シルバーウィークの前半2日を使って、久慈市と野田村の台風10号被害の状況を知るとともに、野田村でのボランティアをしてきました。

まずは、久慈市に立ち寄り中心部に位置する道の駅に車を置いて昼食がてら状況把握をしましたが、だいぶ片づいてはいるものの撒かれている石灰の多さが被害の大きさを伝え、ここでと思っていたラーメンの千草はシャッターが下りたままでした。
そこで、屋台村でまめぶ汁をいただきましたが、ビブスをつけたボランティアがたくさんいてお昼を取っており、話し声からすると宇都宮から来たという方もいて、全国からの支援がさっそく動いているのを実感しました。
そこから麦生へ回って、「あーとびる麦生」に見舞いしましたが、建物自体は体育館の屋根1枚めくれただけで作品への被害もなかったのは何よりでしたが、館長の熊谷さんは45年も借りてきたアトリエ兼教室が140センチも水没したのだそうで、いつもより元気がありませんでしたが、それでも「これを区切りにしなさいってことだ」と切り替えて、自宅を改修して教室を続けることにしたそうです。
何といっても、バイタリティの塊ですので、きっとすぐにバリバリとがんばるはずだと信じて、麦生を後にしました。

そこから野田村へと向かい、苫屋で状況を確認したり今後の打ち合わせをし、山から下りて中心部で桜庭さんの安全を確認してホッとし、造成された復興住宅街である新町団地に入って晴山さんを驚かしてから、当日の宿泊をお願いしていた畑村さんのお宅におじゃまして、震災以来のできごとなど楽しく飲み語りました。
翌日、畑村さん夫妻にお礼を告げて社協に向かい、小谷地さんの案内でもう一人の村民ボランティア前野さんと3人で村南端の下安家地区の最深部の個人宅まで崩落して通行止の県道を歩いて行き、先に来ていた親類縁者の方たちと一緒に午前中かけて外に出ているタンスや戸棚などを解体する作業を行いました。
大震災では肉体労働のボランティアをせずじまいでしたので、初めて野田村でお役に立った気がしました。



こちらのお宅は、玄関先に留めていた車が水没するほどの被害で、その先にある個人宅は土台から動いてしまっているために手出ししないことになっているそうですし、下安家から岩泉町安家洞まで20キロの県道はどれだけ崩落しているのか見当もつかず、河口部のサケ孵化場は大震災に続く全滅で、今後の復旧には時間とカネが相当にかかりそうです。

ところで、弘大ボランティアセンターは土曜日に何度目かの支援に入っていたようですが、当初は野田村社協を通じて久慈市に入っていたのが現在は直接連絡しているそうで、昨日も村には立ち寄らなかったそうです。
私も熊谷さんのところには手伝いに入りたいと思っていましたが、それ以外であれば野田村でボランティアをと考えて今回の作業となったわけで、人数をそろえて最大限の効果を発揮できるところに入る弘大があるだけに、個人の機動力とつながりを生かして動ける自分は別働で野田村にこだわっていきたいと思っています。
団体と個人、それぞれの得意を生かして、支援をしていくことが大切です。

2016.04.19

野田村から見た熊本地震

本日、先日開催した「津軽衆の日」の剰余金を、野田村を通じて「のだ千年の松基金」に寄附してきました。額は48,575円、これはひとえに協賛いただいた企業団体のおかげです。この場をお借りして、心から感謝申し上げます。
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寄附金を渡した際に、小田祐士村長と14日から最大震度7,有感地震が600回を超えた熊本地震について意見交換する形になりましたが、すでに1週間になろうとしているのにいまだ激甚災害指定もされず、国は何をやっているんだと小田村長は歯がゆい思いを吐露していました。
雪も解けきっていない東北の3月を襲った東日本大震災と比べれば、温暖な九州の4月とはいえ避難所に入りきらず軒下や車上生活を余儀なくされているのを見て、自衛隊の野営テントをもっともっと出してもらって夜露をしのげるようにすべきだというのももっともですし、野田村から支援物資を送ろうとしたら物流会社が届けられないと断ってきたのは何たることかと憤慨していましたが、5年前の経験から恩返ししたくてもかなわない歯がゆさが、ヒシヒシと伝わってきました。
何といっても、大震災の経験が生きるように次への備えを図っていれば、もっと迅速な対応ができたはずですが、そのような動きがまるでないままに次が起きてしまったことが、残念でならないようでした。

私からは、日曜日に行った募金活動で案外関心が薄いのに驚いたことを話すと、自分は九州の大学に学んだし教育長は熊本出身というような縁があれば別だが、やはり距離が離れているだけに仕方のない部分はあるというお話でしたが、野田村にずっと入っている大阪大学の渥美先生は前震発生後すかさず現地入りしたのはよかったものの危うく本震で被災しそうになって一旦出直すことにしたという情報を教えてくださり、どういう形でかかわるべきかも難しい問題だと思いました。
それでも、道路使用許可が認められそうですので、23日には改めて弘前公園付近での募金活動を行い、遠く津軽から熊本への支援の気持ちを届けたいと思います。それこそが、野田村から私が学んだことを形にするものだと思うのです。

2016.04.03

「花は咲く」にこめた思い

野田村と津軽の支援交流5周年を記念するとともに、私たち「動こう津軽!」の活動の区切りとして、イベント「津軽衆の日」を開催しました。
3年前より多くの方々が集まってくださり、佐藤ぶん太、・花嵐桜組・和三弦会など津軽を代表する音楽・芸能の皆さんの熱いパフォーマンスを楽しんでおられました。それぞれ思いはあるとは思いますが、イベントとしては成功のうちに終えることに感謝したいと思います。本当にありがとうございます。
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最後は、「花は咲く」を全員がステージに上がって会場一体となって歌って幕を閉じましたが、司会の私から「本日はアンコールはございません。次の舞台でお目にかかるのが、私たちのアンコールです」と伝えたとおり、野田村や久慈市あーとびる麦生での再会が予定されている出演者がいるように、すでに次の交流は動き出しています。
一方で、弘大を中心とした弘前市からの「チームオール弘前」での活動が不定期になることもあり、塩の道を一緒に歩いてくれる弘前市民の募集に協力してほしいという要請をいただいていますので、この行政でも大学でもない一市民である私に対する期待には、しっかり応えたいと思っていますし、今年の岩手国体の時期にあわせた活動を企画している団体とのご縁もありますので、これからも野田村には通い続けることになりそうです。

ところで、「花は咲く」といえば、HNKがこの歌をテーマに野田村を題材にした番組を作ったのも忘れられない思い出ですが、その番組に取り上げられるほど仮設住宅の周りを花いっぱいにしていた方は、3月末日に復興住宅の鍵を受け取って「ちょうど、その日は引っ越しの最中だ」ということで、残念ながら欠席でした。
この歌がフィナーレで、大好きな花嵐桜組も来るというのに、自分の日常を優先するあたりが、いつもながらの竹を割ったような性格が表れていて、小田村長はじめ見慣れた皆さんの中に姿を見せない存在感を、逆に感じてしまいました。
それでも、いつか見た手入れされた庭先に遊ぶ子どもが、「いつか恋する君」に育つのを願って、この写真を使いましたよ、ちづ子さん。
これからも、野田村の皆さんよろしくお願いします。
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2016.03.12

野田村に6年目のゴスペル

野田村をはじめとする東日本大震災の被災地は、5回目の3.11を迎えました。
当日は、厳粛な雰囲気の中で粛々と追悼式典が行われ、その後弘大や関西の各大学などで組織されているチーム北リアスのフォーラムが開催されましたが、どれも予定調和で進んでいき、私としてはその前の時間に「津軽衆の日」のポスター掲示を依頼でかつての避難所や懐かしい方々に再会したことの方が心に残る一日でした。

明くる12日、6年目の最初の日に防潮林再生と野田村の特産である山ぶどうのワイナリーの植樹祭が行われるというので、再び野田村へと向かいました。
野田村の玉川地区には、マリンローズというマンガン鉱跡を活用したパークがあるのですが、今回はここをワイナリーの拠点に改装し、そこで松の植樹を行うというのです。
おじゃましてみると、いつもはお会いしたことのない人たちがたくさん集まっており、その中に「のだ千年の松」プロジェクトの代表として苫屋の坂本久美子さんやだらすこ工房のお父さん方、またワイナリーにスピンオフするえぼし荘の坂下支配人など見慣れた顔もあり、さらには全体の司会を小林由美さんが務めていたのが驚きでした。
公的な主催者である国土緑化推進機構のあいさつや防潮林を説明する紙芝居、協賛しているDCMホーマックの社員による植樹の仕方の説明を受けて、植樹が行われました。
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その後、振る舞いの炊き出しと音楽祭という第2部がはじまり、地元のブンドーズと名古屋から昨年は5回も足を運んでいるVSMYBLUESのライブがあり、その後はるばる福岡県久留米市から支援してくださっているゴスペルクワイヤVOGの代表である広重貴子さんからツツジの苗木の提供、そしてアメイジンググレイスの独唱と会場全員での翼をくださいの合唱となりました。
だらすこ工房への支援の関係で広重さんとやりとりする機会があった私としては、この歌声を聴くのが最大の目的でしたので、寒さにふるえながらもうれしい気持ちでマリンローズを後にしました。
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ワイナリーの開設には、横浜市のネパリバザードという会社がかかわり、千年の松にはホーマックと、ビジネス側からの社会貢献がセットになっており、これまでの大学や市民の支援や研究という流れが変わっていきそうです。
とりわけ、オール弘前の訪問が不定期で回数が減り、私たち「動こう津軽!」も4/3の「津軽衆の日」で区切りをつけるわけですから、津軽からどのようなかかわりを持っていけばいいのか、真剣に考える必要があると痛感します。
ただ、いつでも今回もそうだったように、野田村にいても何の違和感もなく存在しているのが私のとりえですから、変わりゆく野田村を、つかず離れず見守っていきたいと思います。

2015.08.23

花嵐桜組の演舞に改めて決意

大震災から5年目の「野田まつり」にあわせて、来月の活動の段取りをつけるために野田村と「あーとびる麦生」を回ってきました。
こちらの方も首尾よく済み、内陸部では降り続いていた雨もやんだところで、3台の山車や神輿が練り歩き、続いて役場前「のんちゃん広場」特設ステージでの花嵐桜組の5年連続の演舞となりました。
昨年今年の演舞曲や旗振り乱舞に続いて、野田村のために作った「野田村 in my mind」と今年初披露となる「よっちょれ 野田村バージョン」の2曲を披露して、大きな拍手を浴びていました。

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思えば、震災後の「古都市民花火の集い」に野田村の皆さんを招待した際にも花嵐桜組が演舞したのですが、席がステージから遠くてよく見えなかったのを残念がっていましたので、YOSAKOIつながりのある私があいさつだけでもとリーダー・キャサリンに声をかけたところ、メンバー全員で移動してきて曲なしで踊ってみせたばかりか、キャサリンはそのまま席に残って語らい、話が盛り上がって「皆さんに来てもらったのだから、今度は私たちが行く!」と宣言したのが実現したところからはじまったことだけに、声をかけた立場として感慨深いものがあります。
それも、訪問を続けるだけでも大変なことなのに、他の場では滅多に踊ることのない曲まで作るとはすごいとしかいいようがありませんし、その曲を4月に佐藤ぶん太、のつながりで知己をいただいた佐藤生朗さんが手がけたのですから、ここにも縁のつながりを感じずにはいられません。

2年前には、活動に協力してくださったメンバーが一堂に会したイベント「津軽衆の日」を開催しましたが、今回の花嵐桜組を見て、ある意味で一区切りとなる来年3月には再び開催したいと思いを新たにしました。
そこには、キャサリンにも生朗さんにも参加してほしいと思っていますし、津軽と野田村の交流をさらに強いものにしていくマイルストーンにしたいと思います。

2015.05.17

飯舘村から脱原発を考える

呼びかけ人になっているわりにはなかなか参加協力できずにきた「脱原発弘前映画祭」に、今回は何とか足を運ぶことができました。

今回のメインは、飯舘村の酪農家・長谷川健一さんが自ら撮影してきた映像をまとめたドキュメンタリー「飯舘村 わたしの記録」とご本人による講演でしたが、大震災以前は日本一美しい村づくりを「までい」(=ていねいに趣を加えた方言)をスローガンに掲げる菅野村長の盟友としてともに取り組んできた方が、どのような経験をしてきたのかが映画から伝わり、どのような経緯をたどって全村避難に至ったのか、そこでどのようなことがあって菅野村長と袂を分かつことになったのかを講演で赤裸々に語ってくださいました。
実は、菅野村長は理想の村づくりをめざす仲間として何度か相馬村を訪問して講演されたこともあり、そのご縁で避難後にも支援を求めて農協女性部の方々が相馬村を訪ねてこられたことがあって、その際にも避難のことで村が割れていることを聞いていましたし、隣接している南相馬「こどものつばさ」への協力などで訪問した際にも関連する噂にふれることがありましたが、村民の半分以上がADR=紛争解決センターへの申立団に加わっているのに行政側は支援するどころか切り崩しに動くまでの対立となっているとは、想像以上のことでした。
長谷川さんは、村民側の先頭に立って最終的には村長リコールも辞さずの覚悟で動いているのだそうで、講演や著作を通じて真実を伝える活動をしていますので、ぜひ皆さんにも関心を持っていただきたいと思いますし、私個人としては帰村より命を大事に考える長谷川さんを応援したいと思います。

その飯舘村を、南相馬に行く際に何度か通過したことがありますが、大震災の被害が見えない美しい山村にまったく人の姿が見えない異様な光景に、地震や津波という天災ではなく原発事故という人災のむごさを感じましたし、こんな遠くの山の中でも人が住めなくなるほどの被害をもたらす核エネルギーの怖さに背筋が寒くなる思いをしたものです。
そればかりか、一番強い絆で結ばれていたはずのリーダー二人の仲を引き裂くほどの対立を村にもたらし、仮に帰村宣言が出されたとしても元の村民が顔をそろえることがかなわなくなっている現実を思うと、飯舘村が東日本大震災そして福嶋第Ⅰ原発事故の最大の被害地だと思います。
南相馬・大槌そして野田村でも、大震災に立ち向かう人たちの陰で見聞きする裏の話は枚挙に暇がありませんし、とりわけ原発事故での避難生活にかかわる影の部分を知るにつけ、これだけの広範な被害を及ぼす原発という存在を認めるわけにはいきませんし、それを再稼働させようとする政治や経済の勢力とは並び立つわけにはいかないと思っています。

脱原発そして反核という立場で、一市民としてできることはこれからもこれまで以上に協力していくつもりです。

2015.05.16

野田村、不安と希望

野田村といえば一番の産物は天然の海水からつくる「のだ塩」ですが、横浜市に本社を置くネパリ・バザードという主にネパールとのフェアトレードを行っている会社が東日本大震災の支援に取り組む中で陸前高田の柚子とコラボする商品開発を行ったのがきっかけで、今年中に山ぶどうのワイナリーを作る計画が持ち上がり、そのキックオフとしてネパールの塩の道をテーマにした映画「ヒマラヤ」上映と野田村の未来を語るシンポジウムを開催するというので、半月ぶりに足を伸ばしました。

映画は、ヒマラヤで塩を何日もかけて運んで食料を手に入れて暮らすドルポという村が舞台で、跡継ぎと思っていた息子の事故死を親友の若者のせいだと疑う長老と、その若者がこれまでの掟を破って新しい時代を切り開いていこうとする旅を描いたもので、復興という新時代を創っていく野田村と重なる内容でした。
その後のシンポジウムは、だらすこ工房の大澤継彌さん、チーム北リアス現地事務所長で「のだ塩」復活の立役者でもある貫牛利一さん、そして震災後に戻ってきてデザイン事務所のカメラマンとして働いている20代の大沢航平君で、世代も立場も違う3人がそれぞれの経験と思いを語り合う内容で、非常に濃密なものになりました。
3人とも、震災のダメージから抜け出した取り組みをしており、積極的に外聞の人間とかかわる中で、野田村を好きになってもらおうという気持ちにあふれており、今回はネパリ・バラードが企画したツアーに参加してこられた30人以上の方々にもきっと思いが伝わったことと思います。

ただ、「のだ塩」と山ぶどうワインを生産する第3セクター「のだむら」の社長でもある小田村長は最初から最後までいらっしゃいましたが、3セク関係者以外の村民は映画の時も少なく、シンポジウムではほとんど外部の人ばかりだったことが気になりました。
確かに、継彌さんのように元々口下手だった方が話すことも恩返しと思って積極的にかかわるようになった方もいますが、私にしても仮設住宅に入った方のうち半分はお会いすることもなく4年が過ぎていますし、航平君のような若い世代とはほとんどコンタクトがないのも現実です。
せっかく新しい取り組みがはじまるにしても、そこに村の人間が中核を担う形にならなければ、復興を超えた新しい村づくりには進んでいかないのですから、非常に気がかりです。
それでも、小田村長も航平君や息子の洋介君のように戻ってくる若者がいることに期待していると話していたとおり、まだまだ時間のかかる復興なのですから、少しずつ希望の粒が増えていくのだと思いたいところです。

ところで、5年目の野田村の新たな動きに、それでは私はどうかかわるのか、それこそが身の振り方ともかち合うことだけに、真剣に考えなくてはならないと思います。

2015.05.01

素浪人5年目も野田村から

当選していれば、日程変更か別の人に運転手をお願いしなければならなかった野田村での月例ヨーガ教室ですが、皮肉にも予定どおり自分で行くことができる形になり、素浪人5年目の初日を4年前と同じく野田村での活動で過ごしました。

4年前は、この日が2回目の訪問であり、まだ避難所がどこにあるのか、そこにどんな人たちがいるのかまったく知らなかったのですが、今日は毎回のように参加してくださる顔ぶれに「(選挙)お疲れ様」と気づかっていただき、だらすこ工房のお父さん方と話しこみ、避難所だった野田小学校に米田集会所、えぼし荘、そして海蔵院を回って、4年前との違いを実感してきました。
ヨーガ教室を開催している野田中学校仮設住宅にしても、4年前には半月後の入居に向けて工事の真っ最中でしたし、それが来年の今頃には野球グラウンドに戻す工事に取りかかっているはずですから、被災地での時の移り変わりの早さを思わずにはいられません。
それ以上に変わったのは、野田村と私との関係で、4年前には自分の意気ごみしかなかったのが、1070回も通っている中で何度も村の皆さんの温かさや豊かな自然に励まされて、私にとっては被災地ではなくフルサトとしか思えなくなるほどの思い入れのある地域になったことで、今日も暑さのせいか夏色を思わせる野田村の穏やかな海を見ていると、救われる思いがしました。
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野田村に通うことは、何があっても続けますが、これから変わらなければならないのは、素浪人であることです。
これまでの4年間は、必ず返り咲くという思いで議場に立たない以外は議員並みの活動をしてきましたが、さすがに今度は定職に就いて生活を立て直し、父であり夫である立場を最優先していくのが先決だと思っています。
その意味では、素浪人としての5年目は、なるべく早めにケリをつけなければなりません。

まだ、どこで何をという具体の話はありませんが、まずは再スタートすることをお知らせしておきます。

2015.03.24

野田村に支援された4年を振り返る一日

3/11から2週間たった3/25に、弘前からの先発隊が初めて野田村に入りました。
当時弘大にいた山下祐介先生の仲間である関西の先生方が被災の状況や支援やボランティアの有無を確認しながら八戸市から南下したところ、北三陸では最大の被災をしたのが野田村でありボランティアの姿が見あたらないこと、さらに南下して宮古まで来ると被害は大きいもののボランティアがたくさん活動していることをふまえて、ルート的には日帰りでの支援も可能な弘前市からの支援ができないかという情報がもたらされ、それに呼応して白神山地プロガイドである土岐司先生が隊長となりJCの連中や学生が隊員となって野田村へと向かいました。
最初に避難所に顔を出した時には、「今頃何しに来た」とはねつけられ話もできなかったそうですが、続けて何度も顔を出しているうちに本気で支援しようとしているのが伝わり、行政への支援とあわせて官民協働の大型バス部隊が派遣されたのが3/31で、私もその時に初めて野田村とのご縁ができました。

それから、支援の顔ぶれや方法は変わりましたが、丸4年となる3/24に日程が取れたので思い立って、最初の訪問から一緒した佐藤ぶん太、と二人で野田村の仮設住宅や避難所だったところを回り、ご縁のある方々に横笛を聴いてもらうツアーを行いました。
久々におたくに上げてもらってゆっくり歓談したり、海の幸や苫屋自家製の生ハムをごちそうになったり、ぶん太、のことを一番好いていてくれるお母さんと再会したりしながら回り、土岐先生が最初に訪問し私たちも最初の炊き出しと交流をさせていただいた米田集会所に最後に訪問しました。
その時からお世話になっている米田やすさんが地区の皆さんに声をかけてくださり、20人以上も集まったところでぶん太、が4年ぶりに笛を吹き、その時に笛の音に反応した子どもたちが田んぼのあぜ道を駆けよってきた奇跡の場面を思い出させる「希望の粒」の際には、あの時の奇跡と4年間のご縁を思って感無量の涙がこぼれました。

考えてみれば、落選したからといって震災支援をやめるのでは売名行為だったと烙印を押されるのがイヤで、一市民に戻った最初の日から野田村に土岐先生に連れて行ってもらい、この4年で170回は足を運んできましたが、そんなどん底の私を励ましてくれたのが先生であり野田村の心温かい皆さんと豊かな自然だったのを、改めて実感しました。
私こそ支援してもらっていたのだと心に刻んで、また新たな交流を続けていきたいと思います。

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