2016.09.04

4日遅れのお山参詣

岩手県と北海道に大きな被害をもたらした台風10号は、幸運にも青森県には爪痕を残さず、おかげさまで津軽最大の秋の行事・お山参詣は、31日の宵山と1日の朔日山は無事に行われ、4年ぶりにご来光を拝むことができました。
まさに岩木山のご加護と感謝するとともに、被害にあわれた皆さんにお見舞い申し上げるとともに、岩手の皆さんには少しでも支援ができればと思っています。

ところで、昨年は縁者の不幸があって不参加だったお山参詣ですが、今年はあるイベントに申しこんでいましたので、続けての無調法となりました。
そのイベントとは、歩こう会主催の「津軽岩木スカイラインを歩いてみよう会」でして、約9km・69のカーブと高低差約730mの自動車専用道路であるスカイラインを、歩いて上るというものでして、今年が5回目となります。
スカイラインを車で上ったことはあっても歩いたことはもちろんなく、登山道での登山もしたことがありませんでしたので、どれだけの人が参加するのか、自分はどのくらいで上ることができるのか、楽しみと不安を感じながら集合場所の弘前駅城東口へと向かいました。
同乗して酒田へと帰る娘が驚くほどの参加者が集まっていて、大型バス4台に乗り分かれて岩木山へと向かいました。
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スカイライン入口から8合目駐車場をめざす10kmコースと途中から歩く5kmコースに分かれましたが、最初からトップ集団に位置して歩いていたものの先頭二人はあっという間に追いつけなくなり、何とか落ちてきた二人を置き去りにして、これほど汗が出るものかと思うほど汗だくになって、約100分3番目でゴールすることができました。順位は気にせずという趣旨ですが、やっぱり気持ちのいいものです。
さすがに一度着替えてから、片道分を無料にしてもらっているリフトに乗り9合目に着き、そこから約40分で4年ぶりの山頂に登頂できました。「歩いてみよう会」としては5回目で一番の天気だったそうで、北海道までとはいきませんでしたが、弘前や七里長浜、さらには津軽半島まで見渡すことができました。
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主催者・事務局代表として終わりのあいさつにたったのは、いろいろな形でお世話になっている今井二三夫さんでしたが、今井さんの流儀では5回をめどにイベントは見直すものという持論を語っていましたが、これはぜひとも継続してほしいイベントです。

2015.11.06

放電する51歳、その先に

51回目の誕生日は、月例の野田村でのヨーガ教室があり、帰ってからのお祝いのワインで酔いも回って、300人以上のFacebookでのお祝いに返事もせぬまま寝入ってしまいました。

さて、昨年の今日考えていたのとはまったく違う境遇ではありますが、二度目の市議落選をふまえて次の道をさぐる中で若山恵佐雄さんと再会して、素浪人から食客にすくい上げていただき、「戦略参謀」というソリューションを展開している会社の参謀を名乗って、介護事業所の経営支援にかかわりながら、津軽のセーフティネット戦略を起行する場としての梁山泊!設立をめざすスタート地点に立つ51歳となりました。
若山さんに声をかけていただいたのは、一緒に人事塾(現在は成長塾)の研修を受けたご縁があったからですが、10月にこれまた人事塾そして中小企業家同友会で覚えていただいた蛯沢勝男さんから全国の成長塾の仲間を紹介していただいてみると、参謀としての戦略策定の先には組織の土台を支える人事制度が必要となりますから、かつて人事塾で学んだことが今になって生きてくるのをありがたく思います。
また、梁山泊!はそもそも40・50代の失業したおやじの再起の場として構想したのですが、専求院の村井ご夫妻とのご縁や若山さんが理事を務めるNPO生前契約青森ライフサポートとのかかわりから終活というテーマに接点ができ、一方で社会的包摂につながるこれから制度としての確立が必要となる事業にかかわることで、これまでの福祉・介護での経験もあわせて、自分が得てきたすべてのものを総動員して実現させていくべきものが見えてきたと思っています。
いわば、これまで充電してきたものを一気に放電する「時は来た!」(by橋本真也)のだと確信しています。

これが、この10年で実現させていく目標になりますが、その先60歳からは大学卒業時に封印した歴史の道もっと具体的にいえば津軽のシュリーマンになるという最初にして最後の夢をかなえる動きをしたいと思っています。
そのために、議員時代から大森勝山遺跡の国史跡・世界文化遺産候補地選定に関心を寄せ続けてきましたし、敬愛する今井二三夫さんが立ち上げた「縄文の会」の末席に名を連ねているのも、縄文遺跡にふれる機会を確保したいと思っているからですが、こういった文化資源をしっかりと保全しながら情報発信していくことでの貢献もしたいと思っています。

社会に貢献していくアクションの先に、津軽の文化を掘り下げる夢を持って、折り返し点をとっくに過ぎた人生を歩んでいこうと思います。

2014.12.13

「珈琲法要」に隠されていたもの

成田専蔵先生が黒石市の黒森山にある浄仙寺で毎年行っている北方警護で殉難した津軽藩士を弔う珈琲法要で演じたものを、80分の作品に仕上げた「珈琲法要」が中三スペースアストロで公演となり、これまでのご縁で実行委員の一員としてお手伝いと観劇の一日でした。

津軽藩士殉難については、佐藤ぶん太、が「祈り」という曲の出だしで語ることもあり津軽の歴史の中で忘れてはならないことと心に刻んでいますが、今回の劇は斜里に赴いた津軽藩士2人とアイヌの女性の3人芝居で、いつ誰が亡くなっていったのか藩士を演じた河村竜也さんが悲しみと怒りをこめて読み上げたとおり、北方警護の悲惨さと理不尽が伝わってきます。
そこで蔓延した浮腫病の薬としてふるまわれたのが珈琲で、これが一般人がコーヒーを飲用した最初ということから、専蔵先生は宗谷岬に殉難の碑を建立し、毎年の法要を執り行ってきたわけで、ここにただ喫茶店が多いだけではない弘前の珈琲文化に重みを与えています。

ただ、今回の劇でハッと気づかされたのは、私たち和人(わじん)が勝手に北方警護することにした蝦夷地=北海道はもともとアイヌの地であり、そのせいでアイヌの生活が乱されたり殺されたりした者もあったという、さらに隠された歴史を演者であり脚本家の山田百次さんは克明に掘り出していて、それを菊池佳南さんがムックリというアイヌの楽器やユーカラで見事に演じていて、非常に心に響きました。
この津軽藩士殉難のことも戦後になるまで隠し続けてきたのですが、弱き者破れた者の歴史は語られることがないだけに、その立場に思いをはせながら歴史を再構築する必要と責任を改めて考えさせられました。

今回は、定員いっぱいの来場者で、何とかキャンセル待ちで入場していただくほどの盛会でしたが、ぜひ多くの人に観ていただきたい劇ですし、これを通じて歴史を考えるきっかけになってほしいと思います。

2013.05.28

憲法を考える上で、津軽の若者に伝えたいこと

戦国時代から徳川幕府の成立、幕末から明治維新という二つの大きな節目の中で、津軽が学ぶべきこと忘れてならないことを書き連ねましたが、もう一つの大きな節目である日中戦争から敗戦までの中で忘れてはならないことがあるのは、さらに知られていませんし、今日市立図書館で書物を渉猟してもまとまったものがないと確認できましたので、私が知っている知識の断片を紹介します。

だいぶ前に書いたとおり、私の祖父は憲兵の職を投げ打って満州国侍従武官長を務めた板柳町出身の工藤忠氏に縁戚を頼って渡満し、聞いたところでは首都・新京市の初代警察署長からはじまって満鉄系の国策会社などで幹部として働いた経歴の人間でした。
そのため、私が生まれて母が「直樹」と命名したのを聞いて、満州で世話になった人の名だと喜んだのだそうですが、それは当時「二き三すけ」と呼ばれた満州国建設の立役者の一人、星野直樹をさしてのことだったようです。ちなみに、「き」のもう一人は東条英機、「すけ」の一人は安倍晋三首相の祖父・岸信介です。

このルート以外に、満州国建設に五族協和の夢を描いてわたった人も多く、そこには明治期以来の名家・伊東家の出身で東京帝大史学科を卒業し、北一輝・大川周明などとも交遊し、石原莞爾の「最終戦総論」には名前が出てくるほど思想的影響を与えた伊東六十次郎が満州国に長くかかわったことも大きな要因です。
当時の弘前では、渡満した人々ばかりでなく、養生会が東亜連盟弘前支部として大々的に活動し、そこには戦後弘前の市政教育に大きく貢献した小田桐孫一・鳴海修などの著名な方々の若き日の姿もあったようです。
六十次郎氏は戦後11年間ものシベリア抑留を経て帰国し、その後も最終戦総論とは戦争がなくなる社会の実現であるとの趣旨にもとづいた主張を続けたのですが、石原莞爾に連なる思想であることからか弘前においても隠されたような存在であり、まとまった評伝も存在しないようです。

一方、祖父の話に戻ると、不敗の皇国日本を信じていたようで、工藤氏が満州を去っても敗戦までとどまっていたのですが、満州国の理想である五族協和を地で行く接し方をしていたおかげで他の日本人の家が焼き討ちにあう中で「三上さんだけは、よくしてくれた」と助けてもらって引き揚げることができたのだそうです。
祖父は敗戦当時39歳であったのですが、理想の喪失と敗戦のショックからか公職追放が解かれた後も元々不和であった曾祖父が仕切る農家の仕事をすることはなく、議員や教育委員の特別職をしながら孫である私に書や将棋を教えて晩年を過ごしていたのを覚えていますが、軍隊時代の雪中行軍の追悼演習の話はしても戦争や満州のことは何も語らなかったのには、それだけの意味があると思います。
今、祖父の悲願と改憲に突き進もうとする安倍総理ですが、私は同じ満州国に縁を持つ者として、理想を持って設立したといってもまごうことなき侵略行為であり、その結末として多くの戦死者・抑留者・残留孤児を生み出してしまった行いを追慕回帰しようとする姿勢は、歴史に学べない者の態度だと思いますし、それは岸信介がA級戦犯とされながらも復権したことの受けとめ方に生まれつきの間違いがあるのだと思っています。

ところで先日、JC主催の憲法アクションDaysがありましたので、このことをふまえた発言をしましたが、同年代の津軽の若者が満州国に夢を追ったこと、戦争で多くの仲間を失ったことが伝わらずにきた中で、時代の流れで改憲へとハンドルを安易に切ろうとするのを止めるのが、先輩であり歴史を学んだ当事者の子孫のすべきことだと思っています。
JC諸君、いつでも憲法のこと戦争のことを語り合いますよ。

2013.05.27

津軽が忘れてはならないこと

昨日のBlogで書き漏らしたことがありますので、改めて津軽が歴史から学ぶべきこと顧みるべきことを記しておきます。

津軽の歴史において一番大きなできごとは、何といっても藩祖・津軽為信公の南部氏からの独立です。
南部氏より一足早く小田原に駆けつけて豊臣秀吉に所領を安堵され、その後関ヶ原の戦では東軍に自分と次男・信牧公がつき西軍には長男・信建を向けるという両面作戦をとり、徳川の時代になっても信牧公は元々の正室であった石田三成の娘を側室におとして家康の孫娘・満天姫を正室とするという、生きのびる手だてを必死にさぐっていきました。
その後、現在では破綻した東照宮が全国で初めて日光以外に建立されるほど徳川からの信任を得て幕末まで津軽を治めることになったのですが、それにもかかわらず大名としての地位を認めてくれた豊臣への恩義をひっそりと堅く守ってきたことは、ほとんど知られていません。
為信公の祖廟は革秀寺にありますが、そこに安置されている豊臣秀吉像は元々本丸北の石垣に隠されて祀られていたのだそうで、自らの礎の場におくという思いがあったことがうかがわれます。

Sobyou

これだけの恩義を忘れないという思いがどこかで薄れていき、現代にはまったくといっていいほど伝わっていないことが、津軽が歴史から学ぶことをしていない証明であり、本当に残念に思っています。

これだけあれば、歴史に学ぼうで済むのですが、時代を下るに従って都合の悪いことは伝えないという悪弊が上塗りされてきました。その最大のものは、斜里での蝦夷地警護殉難の秘史です。
1807年にあったこの事件は、あろうことか藩の日記にもふれられず戦後になるまで知られていなかったのですが、幕府からはその働きが認められ十万石へと加増を受けているのです。
この事件が、歴史に向き合うことを避け、歴史から学ぶ姿勢を失わせる転機になったと、私は考えます。

当時の藩主をはじめとする方々も、その時その時での最善の判断と思って事件の秘匿や脱盟をしてきたのでしょうが、その歴史を引き継いで津軽の地に生きる者としては、その事実を知り評価しながら今に生かすことをしなければなりません。
ことに殉難と脱盟の件は、自分たちさえよければという発想が強いだけに、反面教師として学ばなければならないことだと思いますが、豊臣秀吉像を納めて築いた弘前城築城400年に東日本大震災がおき、自分たちのためでなく東北のために桜まつりを開催しよう震災支援に取り組もうとしたことは、こうしてみると歴史の流れを変える、津軽の気風を古に戻す大英断だったと評価できると思います。
その意味でも、歴史に学び未来につなげる取り組みを広げることも、歴史を専攻した者の務めです。

【追記】
この二つの投稿に、さまざまな形で意見をいただきました。ありがとうございます。
コメントとしてではなく、追記の形で回答としたいと思います。

藩の行いで津軽の人々を決めつけるのは〜ということに関しては、会津の「ならぬものはならぬ」は士族階級の教えだと思いますが、それをもって会津の精神といわれるように、当時の藩の姿勢で語るしかない時代と階級社会という制約があると思います。
その農民の方々が苦しんだ天明・天保の飢饉は江戸時代の津軽にとっても一大事であったと思いますが、これを受けて武士階級で変わるものがあったかといえば疑問符がつくのも、時代のありようだったと思います。
このような、民衆の側から考えられるだけの資料があれば改めて見直すべきだと思いますが、当時の政事を動かしていた立場にあった人たちの所業から読み取れるものを抽出したのだと、ご理解ください。

2013.05.26

「八重の桜」から津軽が学ぶべきこと

今年のNHKは大河ドラマは会津の「八重の桜」、朝のTV小説は北三陸の「あまちゃん」と、東北が舞台だけに珍しく毎回欠かさず見ています。
野田村通いのおかげで裏話もわかる「あまちゃん」には人一倍楽しませてもらっていますが、一方の「八重の桜」は戊辰戦争へと進むにつれて、正座をして涙を流さずには見られなくなっています。
その思いはどこから来るのか、記しておきたいと思います。

会津と弘前、ともに東北を代表する城下町で、片や徳川御家門の名家・松平氏が治め、こちらは下克上の外様大名・津軽氏の領地、その幕府との距離の違いが幕末の歩みを分けたのですが、知られていないところでより違いが際だつエピソードがいくつかあります。
京都守護職として孝明天皇の信任も篤かった会津藩ですが、鳥羽伏見の戦以来は朝敵の汚名を着せられ、これを不服とした東北や北陸の諸藩は奥羽列列藩同盟を結び薩長新政府に対抗しますが、弘前藩は継嗣をいただいた近衛家からの情報を頼っていち早く脱盟して新政府方につき、同盟方に残っていた盛岡藩との境界に位置する野辺地に攻めこんで逆に多数の戦死者を出すという醜態を歴史に残しています。
これにひきかえ、会津は家訓を守って徳川宗家への忠義を貫き、「ならぬものはならぬ」の教えのとおり鶴ヶ城落城まで戦い、そこから盛岡藩のうちでも不毛の地に「斗南藩」として追われたので、その後の廃藩置県で半分は「官軍」、残り半分は「賊軍」に属する対立の構図の上に青森県が成立したのです。
私も、戦国時代の津軽氏の下克上の歴史は知悉していましたが、以前鹿児島を訪ねた際の書きぶりでもわかるとおり会津=斗南の歴史は門外漢と言ってもいいレベルでしたので、その際乗ったタクシーの運転手さんが青森から来たと言ったとたん、「会津の皆様には顔向けできない」と平謝りしたのが大仰すぎると思っていたのですが、今回のドラマで途中で手のひらを返して会津を朝敵に追いやった薩摩の立場からのおわびだったのが、やっとわかった気がしますし、津軽こそ会津にわびるべきだと思わずにはいられません。

もう一つ、先日「飛耳長目ネット」を立ち上げるほど私は吉田松陰を敬慕してやまないのですが、その東北行の際には会津にも津軽にも立ち寄ったのですが、会津からは新島八重の兄である山本覚馬のような同志を輩出したのに、津軽には松陰室は残れど維新前後で全国にとどろく人材を生み出したり藩政改革につながるまでの影響は残らなかったと言ってよいでしょう。
ドラマでは頑固と言われる会津でも改革の必要性を感じ取って動いたのが描かれていますが、津軽ではそこまで真剣に受けとめていず、脱盟の振る舞いを見ても大義を守ることより我が身を守るために機を見るに敏であったことしか伝わりません。
そうであったからこそ弘前城が築城の姿のまま残ることになったのであり、薩摩が日本という国のために薩長同盟から倒幕に動いたのは正しい判断だったと思いますが、だからこそ敗れた会津の魂に思いを寄せ、そこから学ばなければならないと思うのです。

巷では視聴率で苦戦していると伝えられる「八重の桜」ですが、会津を二度も敗れさせるわけにはいきません。
一人でも多くの人に見てもらい、義を守ることの大切さを学び感動してほしいと願うばかりです。

2012.09.29

縄文力結集の可能性を感じる

以前から注目してきた大森勝山遺跡は、夏から秋にかけて国史跡指定に続いて、世界文化遺産指定をめざす「北海道・北東北の縄文遺跡群」のリストに加えられることになり、縄文に対する関心が高まる中、今度は西目屋村大川添(3)遺跡からキノコ型のふたのついた赤色顔料入りの土器が出土したのが報じられましたので、現地説明会に矢も盾もたまらず足を運びました。

現地は津軽ダムのために水没するために離村が済んだ最奥の集落から白神山地に向かう途上に位置していましたが、当日は100人を優に超える見学者であふれて、県職員からの説明に熱心に耳を傾けていました。

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現在では森の中に埋もれた人里離れた奥山に、縄文時代から平安時代までの住居跡があるだけでも驚きですが、近くの水上(2)遺跡からはヒスイの装飾品が出土していて、こんなところまで交易の波が及んでいることもわかり、縄文人のたくましさには感嘆するばかりです。

その末裔である私たちには、縄文遺跡の保存活用にかかわるミッションがあると思うものの、そんなムーブメントをおこすきっかけを思いあぐねていたのですが、当日の参加者の人数を見て一歩動けばきっと縄文力が結集して動き出すものがあると確信しました。
10/14に行われる大森勝山遺跡講演会にはドリプラ青森大会を優先するため涙をのんで欠席ですが、12月には岩木山を考える会で高校時代の恩師・ハクション大魔王こと佐藤仁先生の講演がありますので、そこから動くつもりです。

2012.06.16

大森勝山遺跡、世界文化遺産への第一歩

野田村の皆さんとの楽しいツアー初日を終え、前泊のために目を通していなかった地元紙を見ると1面で大森勝山遺跡が国史跡に指定されたのが大きく報じられていまして、ついつい「やった!」と大声を上げて家族から相変わらずのいぶかしい視線を浴びてしまいました。
この遺跡に関しては、福祉の修業先であった特養三和園に通勤する途上に看板があったので20年前から知っていましたが、2008年の発掘調査で縄文晩期の環状列石という他には見られない遺跡が含まれていることがわかり、私も一般公開の際に見学して以来、国史跡さらには世界文化遺産への登録に向けての動きを一般質問だけでなく予算決算の審議において必ず取り上げてきただけに感慨深いものがあります。

そのせいで担当課である文化財保護課にとってはやっかいな存在だったろうと思っていたのですが、公開の際の課長であった大谷前教育部長からも聞き取りに来た経験のある職員からも、自分たちの仕事に関心を持ってもらっていることへの緊張感と感謝があったという話を聞いたことがあり、質問することの意義を考え直すのにつながったテーマでもあっただけに、日本史学科卒の歴史好きとしても議員という立場にとっても大事な存在でありました。

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これから世界文化遺産のリストに加えてもらうのは葛西市長をはじめとする行政サイドの仕事ですが、それを後押しする活動を市民として展開していきたいと思っています。
世界に冠たる自然遺産として白神山地も大事ですが、何といっても津軽の象徴である岩木山麓で1万年も続いた遺跡の持つ意味は大きいものですし、津軽の古代史そして岩木山の原初信仰にかかわる遺跡のことだけに、まずは岩木山を考える会で再会させていただいた母校の恩師の方々に相談し、何ができるか何をすべきか考えたいと思います。

2012.06.03

被災アーカイブという支援

弘大人文学部ボランティアセンターからの案内で、亀ヶ岡文化研究センターで野田村で被災した資料を修復する活動が行われるというので、日本史学科卒の血が騒いで参加しました。
当日は上條准教授と片岡助教の指導のもと、ゼミ生とチームオール弘前からの参加者あわせて15名での作業になりましたが、泥がこびりつきカビや塩が浮き出した資料をブラシや竹串できれいにしていくというのは、細かい気づかいが必要なだけに時間がかかり、段ボール1箱くらいの量でも4人がかりで数時間かかるほどでした。

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資料の中には、戦前の獣皮養殖組合や養狸品評会といった会議資料があって野田村では狸の養殖が行われていたという驚がくの歴史を知ることになったり、「小学五年生」の従軍記特別付録があったり大正天皇皇后の御尊影があったりと世情を感じささせるものを見ることになり、現在の野田村からではうかがい知ることのできないものにふれる機会になりました。

翌日の地元紙では1面トップになるほど各マスコミも取材にきていましたが、現地に足を運ばなくても体力がなくてもできる活動ですので、関心をお持ちの方にはぜひ参加していただきたいと思います。

2012.05.06

恩師と母校を思う一日

せっかくのGW後半の4連休は雨にたたられ、「岩木山を考える会」の岩木山講座も傘をさしての現場見学となり、「岩木山神社と桜林」のはずが早めに切り上げることになり、桜が満開になっているはずの桜林での昼食は流れてしまいました。

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今回参加したのは、会長である高校時代の恩師・阿部東先生からのお誘いがあってのことですが、岩木山神社(神社の場合は「いわきやま」というのが正解です)が明治以前は神仏習合の「百沢寺(ひゃくたくじ)」として栄えていたことや、津軽の一代様信仰の丑寅にあたる求聞寺(ぐもんじ)の由来などを歩いて回るという、日本史専攻としては興味津々のテーマだったことが何よりの理由でした。
4/27の鎌田慧講演会、5/3の憲法と民主主義を考える市民集会と、10日のうちに3日も顔合わせをすることになった東先生にあいさつすると、今日の案内役が在学中にいた水沢先生と後に赴任された福士先生、二人の社会科の先生だと紹介されました。
お二人とも、高校の授業では語ることのなかった地元の民間信仰と民俗学のことをていねいに説明され、机上の学問ではない知識をお持ちだったことを知らずにいたのが残念な気持ちになりました。
その再会を与えてくださった東先生は、在学中から文系であり生物部でもない私をかわいがってくれ、帰ってきてからも会うたびに気づかってくれ、最近では「これ、バガで落ちたんだけども」と言いながら周りの方に私を奮起させるように紹介してくださる、本当に得がたい恩師の一人です。

卒業から30年が過ぎても先生はずっと先生ですし、酒を酌み交わすことができる立場になった分さらに深いことを語っていただくこともあり、それが同期会をまとめる役をする一つのモチベーションになっている気がします。
夕方からは、幹事年度先送りを阻止した分早めの準備が必要になった同期会の幹事会と称して集まりましたので、恩師ばかりでなく母校を感じる一日となりました。
今でも、いや今だからこそ縁のある母校を大事に思う今日この頃です。

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