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2016.08.28

59回目の地区体育祭を憂う

台風の影響で雨が心配される時期でしたが、思いのほか晴れ上がった天気のもと、59回目の相馬地区体育祭が行われました。
相馬村の時代は8月第1日曜日でしたが、合併後はねぷたに参加するようになったことで第3日曜日に変更となったのが、今年はその週末に東北ソフトボール大会で会場周辺が使用占拠されたことで、史上最も遅い開催となったわけです。
それだけであれば、少しりんごの収穫を遅らせてでも皆さん参加してくれたのでしょうが、それがちょうど中学校の文化祭とかち合ってしまっていて、中学生の出場はもちろんなく、保護者もそちらに行かなければならない役割の人もあって、例年になく寂しい体育祭でした。
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実は、今年先行して開催された地区ソフトボール大会も中学校の運動会とかち合っていて、体協の事務局長は平謝りに謝っていましたが、今回は地区16町会のうちこれまでの3町会から不参加が大幅に増えて、合同で参加したところを入れても10町会の参加にとどまり、本当にこのまま続けるべきかどうか考える危険水域に入っていると思います。

そもそも、地区体協の役員にしてもほとんどが還暦を過ぎた人ばかりで、若かりし頃からすでに30年近くは顔ぶれが変わっていないことで、小中との連携が薄れてしまっているのでしょうし、そういうお歴々に予定がかち合っていることを申し出るPTA世代が加わっていないのも問題です。
合併前は、「星の里マラソン」という家族で参加できるマラソン大会を主催するほど活発だった体協活動ですが、市の時代となって大会運営の補助金が削除されるとあっという間に大会がなくなるほど自主財源とやる気が欠けてしまっているにしても、他の地区とは違って合併前の名残で地区体協への補助金が続いているからこそ体育祭やソフトボール大会、そしてスキー大会が開催できているわけです。
これは、体協に限ったことではなく社協も同じことなのは前にふれたとおりですが、来年の記念となる60回大会を終えた時点で大会の継続と組織や補助金のあり方を見直すべきだと思っています。

思えば、私たちが10代だった頃の体育祭といえば、成人男子1500mで健脚を競ったり、最後は200×4=800mリレーで真剣勝負したりと、親睦以上に体育祭にふさわしい種目もあり、親睦の場面では昼から飲むのは当たり前で皆でホルモンをつついていたのが懐かしいですが、今ではそんな種目も煙の立つ場面もなく、昼には閉会式が行われて、反省会は町会に戻ってからという形になってしまいました。
小中学生からすれば、過疎とはいえ当時の人数が多かったこともあり、地区を代表して体育祭で走れるというのは誇りに思ったものですが、わが陸上クラブは出場したもののマラソン専門のクラブや野球チームは試合に行って不在というのも、体育祭のプライオリティが下がってしまっている現れです。
反省会でも、もっとみんなが参加してよかったと思える種目にしてほしいという声もありましたし、続けるにしても種目を再検討する必要があります。

ちなみに、わが昴町会は何とか人数をかき集めて棄権種目が少なかったことと女性陣の活躍で、準優勝というちょうどいい成績でしたので、楽しい反省会となりました。

2016.08.24

【時評】性犯罪被害を考える

6月から犯罪被害者支援活動員の養成研修を受けていますが、先週は犯罪そのものではなく二次被害について学ぶという内容で、その中で性犯罪被害に遭われた経験を持つ小林美佳さんがビデオに登場していました。
小林さんは、ビデオの中で事件そのものより、その後の家族や友人の心ない反応によって二次被害が続いたことを話していて、それが解消できたのはある友人がストレートに思いをぶつけてくれたことで「理解」をしてくれたことが大きかったと話していましたが、どうしても部分的にしか伝わなないことがあると思い、思い立って最初の著作である『性犯罪被害にあうということ』を読了しました。
そこには、事件当日の忌まわしい断片的な記憶からはじまり、警察から病院へと回される中での最初の二次被害、その後の家族や友人たちからの思いもよらない二次被害に苦しむばかりでなく想定外の自責の念、元彼への感情をぶつけての別れから夫との結婚にまつわる性への忌避感、それから性犯罪被害を公表して家族関係が変わってきたことなど、まさに赤裸々に綴られています。
特に、事件後にレイプという語や痴漢にあうだけで吐き気をもよおしたり、高校時代の暴行未遂事件と比べて強姦との違いを論じたりしている部分からは、被害者本人でなければわからない心情があふれていて、その上で今も見つからない犯人に対して許せないという気持ちであるのは、本当に理解できるものだと感じました。

これを読了したばかりのところに、人気俳優による強姦致傷事件が起きて世間を騒然とさせているだけに、何というタイミングと思ってしまいますが、どうも気になるのは母親の女優から溺愛されていたとか被害者のところに謝罪に向かった様子だなどと、どこか情状酌量の雰囲気を醸し出すような報道が続いていることです。
確かに、本人も明るいキャラクターで活躍していて将来が期待されていただけに、ほとぼりが冷めたら復帰させたいと考えている関係者もいるのでしょうが、小林さんの手記を読む限り、犯人がのうのうとTVに映るというのはフラッシュバックを引き起こす蓋然性が非常に高いというほかなく、その懸念がある以上、表舞台に出る仕事には就くべきではないと思います。
このことは、10年前の淫行暴行事件の犯人がTV復帰したことに対して、大手食品会社が反対の意思表示としてCMスポンサーを降りるという、当然で賢明な判断を下しましたが、そのような形でこの事件が社会としてのルールを徹底する契機になればと思います。

実際には、小林さんのように自らの性犯罪被害を公表できる人は少なく、多くの人が被害を受けたこと自体を隠したり、そのことで周りとの関係が崩れることのほうがよっぽど多いわけですし、その事情に配慮した上で被害者も、そして加害者も立ち直れる支援が必要なのだと思います。
ビデオの中で小林さんが話していたように、犯罪そのものは消えないが二次被害はなくすこと解消できることを肝に命じて、これからも被害者支援の学びに向き合いたいと思います。

2016.08.01

シン・ゴジラと庵野秀明、そしてモスラ

12年ぶりのゴジラシリーズ最新作、「シン・ゴジラ」を観ました。
フルCGで野村萬斎の動きをモーションピクチャーで体現した凄まじいまでのゴジラの迫力、長谷川博己・竹野内豊・石原さとみをはじめとする錚々たるキャスト、これだけでも観るに値する作品でしたが、それ以上にこの映画には重いテーマが隠れていて、それが公開まで隠しに隠してきたものだと確信しました。

1954年の初代ゴジラは、大戸島で畏れられてきた神とされながら現実には古代生物が水爆実験で変異したものとして登場しましたが、「シン・ゴジラ」では米国から研究を委嘱された牧教授が伝説の呉爾羅からGODZILLAと名づけたとされ、放射性物質を食らって変異したと、ほぼ同じ原因で誕生したとされています。
この間のゴジラシリーズは、この原因をはしょって単なる怪獣映画として構成されてきただけに、これだけでも新たなゴジラシリーズとしてのシンの意義は十分だと思います。
一方、1954年版ではゴジラ発見後の対応を国会らしき場で議論されていましたが、2016年版では第一報が内閣に上がったところで空疎な会議の連続で後手後手に回ってしまい、国会での議論は描かれることもなく総理以下主要閣僚が亡くなるという緊急事態で、長谷川博己・竹野内豊そして平泉成らによって構成される臨時政府が危機に立ち向かいます。
また、1954年版では登場しない米国および米軍が、今回は放射性物質を廃棄した者として、さらには日米安保条約や国連多国籍軍の相手国として、ゴジラと日本に向き合います。
ここにこそ、真実のゴジラシリーズとしてのシンの意義があると思ったのは、米国からの圧力を感じさせる場面ばかりでなく、長谷川と竹野内の会話の中で、「属国」という言葉が飛び出してきて、これはまさに白井聡の「永続敗戦論」そのままだと感じました。
「属国」としての日本が、ゴジラと米国に対してどのようにしていくのか、これがクライマックスにつながっていきますので、ぜひ劇場でご覧いただきたいと思います。

ところで、今回の総監督は「エヴァンゲリオン」シリーズの庵野秀明ですが、彼にはもう一つ宮崎駿監督の「風立ちぬ」の堀越二郎役の声優という立場があります。
この映画での声優になぜ庵野監督を選んだのか不思議に思いながらも、抑制のきいた声での伝説の戦闘機設計者役には好印象を持ちましたが、今にして思えば、戦争を描くことで反戦平和を考えさせるジブリ作品の遺伝子を受け継ぐ存在と宮崎監督は認めていたのだと思います。
今回のシン・ゴジラは、圧倒的な存在であるゴジラに対して、日本が自衛隊ばかりでなく内閣も産業界も総力を結集して立ち向かうのが描かれており、東日本大震災や熊本地震などで見せたオール・ジャパンの底力が再現されているのも必見ですが、こういう日本を見せるのが庵野監督の表現したかったものなのだと思います。

ただ、ゴジラと立ち向かうために、東京は壊滅的な被害と放射能汚染に襲われてしまいますし、軍民ともに多数の死者が出てしまったのも冷酷に描かれています。
個体そのものが進化する超生命体として登場するゴジラですが、その知性もしくは知能は未知数であり、今回は神や呉爾羅として拝み鎮めようとすることはありませんでした。
折しも、公開前に「モスラ」で妖精役を演じたザ・ピーナッツが亡くなったことが報じられていましたが、あの歌声にモスラが従ったように、ゴジラと戦うのではなくなだめることで収束を図ることも映画としては考えられるのではないでしょうか。
人知を尽くしてもどうにもならない時、最後に人間ができるのは祈ることのみであり、その役を果たしたザ・ピーナッツがいなくなった年に、シン・ゴジラが上映されるのも、何かの因縁を感じますが、庵野監督にはぜひモスラもやってもらいたい気がします。

これだけのことを考えさせてくれる映画、それがゴジラです。

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