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2015.08.30

市民が主人公の市政にするには

陸上大会が参加者の増加もあって時間がかかり、30分遅れで「市民が主人公のみんなの会」主催の中嶋信先生の講演会に、ジャージのまま出席しました。

中嶋先生は、弘大人文学部の卒業で徳島大学名誉教授、現在は東日本大震災に寄りそう思いで宮城県大崎市に居を移して活動されている方です。
前段の聞き逃した大半の部分は安倍政権の地方創生政策の批判だったようで、まとめとしては地方自治体が地方版総合戦略を策定する上で国の戦略を勘案するという縛りがあり、地方自治の本義を崩壊させる悪政であると喝破していました。
もう一つのテーマである弘前市の最新の総合計画「弘前市経営計画」については、ボリュームで圧倒しているものの、「子どもたちの笑顔あふれるまち弘前」を実現させるための政策事業が見えてこないと斬り、これに対して上越市の農業基本計画を引いて具体的な指標を掲げて取り組んでいるとし、こういう形にしていくには市民からのアクションが必要であるとして、現在住んでいる大崎市での「あったか宮城・大崎の会」で開催している市民フォーラムのことを紹介してくれました。

質疑に移ったところで最初に発言させていただき、経営計画審議の傍聴をした立場から構想や総合戦略ばかりでなく個別の事業まで議決している珍しい総合計画であるのに、その大事なところの議論をはしょって粛々と承認する形になった議会の責任を指摘したところ、参加していた共産党・越市議が「審議においては計画の方向性を論じるのに重心を置いて、個別の事業のことは予算などで質していけばよいと思っていた」と回答しましたが、同様に全文を議決する形式となって初めての県総合計画が議会から何の注文もつかずに通ったのを幹部として見てきた葛西市長からすれば、事業を議決する重さを認識していない議会の怠慢を見透かしていたに違いないと切り返しておきました。
その後の発言でも、タクシーの無料チケットが廃止されるのを何とかできないのかといった切実な声や、この会で5月に市の出前講座をお願いして経営計画を勉強したところ、農業よりも第3次産業重視だと言われて腑に落ちなかったといった、市民から見た市政の問題点が出されていて、これと議会のぬるま湯さのギャップが浮き彫りとなりました。

最後に会の代表から、自分たちも選挙近くにならないと動かないのを反省しないといけないとあいさつがありましたが、中嶋先生もチェックするという意味では決算が大事だとおっしゃっていたとおり、ちょうど決算審議がはじまるところですので、これを市民が集まって個別の事業ごとに成果が出ているのか継続すべきか見直すべきかを精査するような活動ができれば、市民からの提言も重みを増して市政を動かすこともできると思います。
私が考えるシンクタンクも、まずは今行われている政策事業の評価があってこそ動くものだけに、主催団体の名前のとおり市民が主人公となる市政実現のために、できるところから活動していきたいと思います。

2015.08.27

松陰室で床下村塾を知る

先日の叔母からの聞き取りで養生会とのご縁を知りましたので、以前から関心のあることでもありましたので、代表である小笠原豊さんにお願いして、お話をうかがうことになりました。
養生会は、その名のとおり市内のど真ん中・元長町にある養生幼稚園に本部があり、そこには幕末の吉田松陰北雄の際に地元の蘭学者・伊東梅軒と語らった松陰室があります。
思想家としての松陰を尊奉する私ですが、一昨年は縁あって萩の松下村塾や野山獄を訪ねる機会があり感激ひとしおだったものの、これまで地元の足跡をたどる機会がなかっただけに、これだけでもうれしいことだったのですが、小笠原さんのお話はそれにも増して琴線にふれるものばかりでした。
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六十次郎先生のことでは、満洲国から盟友・石原完爾が去った後も大同学院に残って建国の理想実現に尽力されていたのだそうですが、時宜をみては帰弘されたそうで、1944年4月の「松陰祭」の際には公会堂に集まった1000人を超える聴衆を前に反軍演説を行ったそうですが、あまりに理路整然とした内容に特高警察も「演説中止!」とすることができず、その演説後に特高だけを集めてさらに論じたという伝説を教えていただきました。
その際には処分を受けずに済んだものの、翌年に不惑のこの大人物にまで召集令状が突きつけられ、二等兵として従軍したところでソ連軍にとらわれて、それが11年にわたるシベリア抑留となってしまうのですが、その帰還の際には列車が矢立峠を越えて津軽に入ると情報を得た住民が沿線沿いに立ち並んで出迎え、弘前駅から自宅までの道は車が進めないほどだったそうです。
その抑留時代の記録を、ソ連軍に検閲募集されないように二重になっているセメント袋の内側に書き続け、それを帰還する人たちの水筒に丸めて持ち帰ってもらったのをまとめたのが『シベリヤより祖国への書』としてまとめられたのですが、当時仕えた叔母はその清書をしたそうです。
思えば、当時の旧制弘中で数年違いであり同時期に満洲国に暮らした六十次郎先生と祖父の間に交流がなかったはずはなく、それが叔母が仕えるご縁にもつながっているのだと思います。

その六十次郎先生が石原完爾とともに広めた東亜連盟ですが、今となって知る人も少ないものの当時は広く支持を集めていたようで、1945年7月には赤十字社青森支部が講演者として石原を招いて大演説会をするほどだったそうで、その先導役が六十次郎先生の後輩であり私にとっては母校の校長である鈴木忠雄先生というのも驚きですが、未来を見る超能力があったという石原が「この町がなくなってしまうとは残念だ」と月末の青森大空襲を予言したというエピソードまで残っているそうです。
石原というカリスマ的存在があって人は集まったものの上下関係ではなく「自治共同」を掲げる横のつながりだったために、戦後も組織化されることがなく東亜連盟は消えていったというのが後世の評価だと小笠原さんは話されていましたが、その一員であり戦後弘前の自治の基礎を作り上げた鳴海修先生は、そこで得た知識と経験を町会連合会や子ども会の立ち上げに生かされたということでしたので、その理想とするところを学び直すことが今の弘前市にも大事なことだと改めて思いました。

これ以外もたくさんのお話で1時間半も聴き入ってしまいましたが、最後に六十次郎先生はシベリアで書き残す作業を床下でされていたのだそうで、それを「床下(しょうか)村塾」と名づけていたのだそうです。
これは、まさに松陰室に起居されていたこともある六十次郎先生ならではのお話であり、その厳しい抑留生活をユーモアで乗り越えてこられた原動力がここから生まれたのだと感慨深い思いで松陰室を去りました。
まだまだ尽きない津軽と満洲国、そして我が家とのつながりを解き明かすために、これからもご縁をたどっていこうと思います。

2015.08.26

若山経営からのリスタート

再度の落選で人生のロードマップに大きく狂いが生じてから4ヶ月、さまざま考え、いろいろな人たちに相談に乗っていただいた末、青森市の「若山経営」様にお世話になることになりました。

この会社は、税理士である若山恵佐雄さんが代表取締役を務めており、元々は税理士事務所だったのを税理士法人NAVISと経営支援にあたる部門を分けた形になっているのですが、若山さんとは2007年の「人事塾」以来のご縁でその後も人事塾公認講師研修まで一緒し、むつ市での教え子の結婚式で同席するという奇遇まであって、ご縁の深さを感じていた方でした。
それとは別に、議員という立場でなくても政策提言する活動はしたいと思い、それならば政策マーケティング委員会そして政策ラウンジでずっとお世話になった故・中橋勇一さんがなさっていたプランニングネットワーク東北のようなシンクタンクというやり方もあるのではないかと思い、奥様で現在は代表を引き継いでいる麻子さんに相談に上がったところ、協同組合という形態を取っていたプラネットには最初から若山さんも参画されていたのを初めて知り、それならば近況報告を兼ねて設立時のご苦労などを教えていただこうと連絡を取ったのでした。
ところが、若山さんの方では経営支援にかかわる分野として福祉施設や介護事業者という存在に向き合うことが多くなって、実態を理解した上での支援をするにはどうしたらいいかと思いあぐねて私にコンタクトを取ってみようと思っていたところだったそうで、まさに会うべくして再会を果たした形になり、そこから話を具体的に進めて、当面は「経営支援部 社福・介護事業担当部長」という立場でかかわることになったわけです。
具体的には、現在かかわっているケースに一緒に支援したり、福祉施設などに若山経営オリジナルの戦略査定ソリューションである「戦略参謀」の導入を勧めるという仕事になりますので、他分野でも関心のある方は気軽にお声をかけてくだされば、どちらにでも参上するつもりです。

ただ、シンクタンクというのをあきらめたわけではなく、中橋さんが主催されていた政策ラウンジというのは今でいえばフューチャーセンターであったと気づく機会にもなりましたので、個別の事業者の支援だけでなく、かかわった組織ばかりでなく市民も含めて地域の未来戦略を考え語らっていく場を作っていけば、経営的な基盤を保ちながら活動していけるのではないかと考えています。
さらには、ドリプラでの宣言から開店休業にとどまっている40・50代の失業オヤジたちが集う場「梁山泊!」も、経営支援にかかわってもらって、それが再出発のきっかけになるという道もあると思いますし、今回の若山さんからのオファーで考えていたことを一本のロードマップにできる気がしています。

素浪人から食客にしていただいて、リスタートの第一歩を踏み出すことができました。若山経営にとっても、津軽にとっても参謀と呼んでもらえるよう、これからがんばります。

2015.08.23

花嵐桜組の演舞に改めて決意

大震災から5年目の「野田まつり」にあわせて、来月の活動の段取りをつけるために野田村と「あーとびる麦生」を回ってきました。
こちらの方も首尾よく済み、内陸部では降り続いていた雨もやんだところで、3台の山車や神輿が練り歩き、続いて役場前「のんちゃん広場」特設ステージでの花嵐桜組の5年連続の演舞となりました。
昨年今年の演舞曲や旗振り乱舞に続いて、野田村のために作った「野田村 in my mind」と今年初披露となる「よっちょれ 野田村バージョン」の2曲を披露して、大きな拍手を浴びていました。

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思えば、震災後の「古都市民花火の集い」に野田村の皆さんを招待した際にも花嵐桜組が演舞したのですが、席がステージから遠くてよく見えなかったのを残念がっていましたので、YOSAKOIつながりのある私があいさつだけでもとリーダー・キャサリンに声をかけたところ、メンバー全員で移動してきて曲なしで踊ってみせたばかりか、キャサリンはそのまま席に残って語らい、話が盛り上がって「皆さんに来てもらったのだから、今度は私たちが行く!」と宣言したのが実現したところからはじまったことだけに、声をかけた立場として感慨深いものがあります。
それも、訪問を続けるだけでも大変なことなのに、他の場では滅多に踊ることのない曲まで作るとはすごいとしかいいようがありませんし、その曲を4月に佐藤ぶん太、のつながりで知己をいただいた佐藤生朗さんが手がけたのですから、ここにも縁のつながりを感じずにはいられません。

2年前には、活動に協力してくださったメンバーが一堂に会したイベント「津軽衆の日」を開催しましたが、今回の花嵐桜組を見て、ある意味で一区切りとなる来年3月には再び開催したいと思いを新たにしました。
そこには、キャサリンにも生朗さんにも参加してほしいと思っていますし、津軽と野田村の交流をさらに強いものにしていくマイルストーンにしたいと思います。

2015.08.22

社会福祉法人への最後っ屁

社会福祉法人・花の評議員会があり、5期10年最後の出席となりました。

思えば、20年前に当時経営していた特養の主任看護師が花の母体である藤代健生病院の出身だった縁で、彼女の同僚だった「さくら荘」の成田さんから入所者をシーツ交換の実習をさせてほしいという依頼があり、そこから私と精神障がいとのかかわりがはじまりました。
最初の実習では、ワゴン車に乗ってきた皆さんも受け入れる私たちもどうしていいかわからず、玄関をはさんで立ちつくしてしまったのを思い出しますが、3年も続くと皆さんも元気に「こんにちは!」と入ってくるようになり、グループ分けや作業も手早く、終わってからは一緒にお茶を飲むほどなじんでくれました。
こちらから何をしたわけではありませんが、普通に受け入れるだけでいいのだということを教えていただく形になり、それが藤代に入退院を繰り返していた村内の方をデイサービスで受け入れるのに役立ち、利用してからパッタリと入院しなくなったのを当時の院長・蟻塚亮二先生が驚いて、病院の研修や花への参画、果てには認知症をテーマにした        映画「折り梅」上映会という置き土産を置いて沖縄に去るまで、ご縁をいただくことになりました。
その後も当時の榊理事長・上田事務局長にはよくしていただき、長慶会騒動の際に辞任を申し出た際も、間違ったことをしているのでないからと引き留めてくださって今に至っていますし、高齢者とは違う精神障がいの制度の複雑さ、運営の大変さを知ることになって、本当に勉強にもなりましたので、ご恩返しになればと会議では当然のことながら積極的に意見質問してきました。
それが、理事長が交代し後ろ盾となる福祉界の大立者が参画してから、決めたことを追認してもらえば十分だという雰囲気が強くなり、私のような存在は煙たいようで再任の意向も確認されることもなく御役御免となりました。この二人には別の立場の際にはお世話になってきただけに、「麒麟も老いては駑馬にも劣る」を見せられた思いですし、今日の最後も上田さん・成田さんはお別れの握手をしてくれましたが、その二人からは何もなかったのが現実を物語っている気がします。
とにもかくにも、これで社会福祉法人からいただいている役職はなくなりましたので、この機会に社会福祉法人という存在や福祉・介護業界のあり方に一言述べておこうと思います。

一つは、これほどブラックボックス化した法人形態はないということです。
ロッテや大塚家具でお家騒動が世間を賑わしましたが、それでも最終的には株主総会に結論は委ねられますし、同じ非営利組織であるNPOでも平会員にも議決権がある総会が開かれるのですが、社福の場合は数人の理事会と場合によっては評議員会が意思決定の場であり、現場で働く職員の意見を反映させる仕組みはありません。
その理事会・評議員会にしても、理事長が人選して就任してもらうのがほとんどですので、意に反することが決まることがないという部分では、地方自治体以上に専制体制です。
それでも、それも福祉事業にかかわるのは篤志家といわれた時代なら認めざるを得ないことだったのでしょうが、今では福祉もビジネス化し民間企業が参入する時代になっているのに、前時代的な形態ばかりか税の免除といった優遇まで続いているのは、明らかに間違ったことだと思います。
それが、民間参入した側に税を納めるだけ運営が大変だという屁理屈を許してしまって業界全体がブラック化する遠因にもなっているだけに、介護職員の処遇改善や人材確保を図るのであれば、課税を含めたイコールフィッティングは避けて通るわけにはいかないことだと思います。
ひるがえって、国は社会保障費抑制の名目で事業者には生かさぬよう殺さぬようにあたってくるのは変わらないでしょうが、高齢化が進んで介護にかかる負担は増す一方であるのに、国民から制度が持続できるように後押しをしてもらったことがないほど、実際は必要と思われていないのも一方の事実です。
戦争法案や脱原発では国会の周りでデモが繰り返されますが、介護や障がいの問題はそれよりは重大ではないかも知れませんが身近な生活の場面で誰もが向き合う可能性のあることであるのに、国民的議論になったことすらなく、異業種から参入してきた有料老人ホームでも預かってもらえればそれでけっこうとばかり、現代の姥捨て山状況は進んでいくばかりです。
法人や事業者それぞれがしっかりと経営していく以前に、国民的コンセンサスを得て、よりよいケアを納得できる負担で国民が受け入れる方向での改革からはじめなければならないというところに、この問題の難しさがあります。

それでも、こうした前時代的でブラックな環境から脱却して、ケアの理念を掲げて社会から必要とされるように運営されるのが理想だと思いますし、私はこれからも外側から福祉の世界がよりよい方向に進むように力を尽くしたいと思っています。

2015.08.18

終わらない「満洲国」

戦後70年、さまざまな角度から検証する必要がありますが、私にとってはやはり祖父が夢をかけた満洲国のことが気になり、先日の松嶋菜々子主演のドラマ「レッドクロス」では戦中戦後の満洲が舞台でしたので、非常に感慨深く見ることになりました。
しかし、すでに祖父母とも鬼籍に入っているだけに、今となって当時を語ることができるのは長女である叔母のみですので、久しぶりの対面を板柳町の有料老人ホームで果たしました。
数年ぶりに見た叔母は、すっかり晩年の祖母とそっくりになっていて驚きましたが、記憶はまだまだしっかりしていて、自らの記憶と祖母から聞いていた話を織りまぜて、満洲国時代と戦後になってからの余話とあわせて教えてくれました。

その話によると、叔母は生まれて2ヶ月で飛行機に乗せられて祖母とともに渡満、その際に半年間満洲国皇帝溥儀の侍衛長を務めた板柳町出身の工藤忠氏のお宅にお世話になっていたそうです。
最初は祖父の赴任先の佳木斯に数年暮らしたそうですが、敗戦までは国策会社で運転手が迎えに来る立場となった祖父を筆頭に新京で暮らし、工藤家との交流は厚く、とりわけ祖母と忠氏の次女・あい様は仲がよかったそうで、工藤家が1945年3月に引き上げる際に一緒する約束をしたのだそうですが、神州不滅を信じる祖父が「帰るなら離縁する」と言うので、泣く泣く敗戦までいたのだそうです。
戦後もおつきあいは続いていたそうで、津軽に戻って生家を継いだあい様の息子・正道さんと、その家を資料館「皇帝の森」として切り盛りしている静子さんご夫婦の祝言には祖母が招かれたそうですし、叔母も何度かおじゃましたことがあるそうです。
また、叔母の上京生活の際には、これまた弘前市出身で石原莞爾の「最終戦争論」に多大な影響を与えたばかりでなく、自ら満洲国にかかわったためにシベリア抑留の憂き目に遭った伊東六十次郎先生の秘書役で仕えるご縁をいただいたそうで、何度か成田市に隠棲した忠氏のところに先生のお供でおじゃましたこともあったと聞き、満洲国の当時ばかりでなく戦後までも津軽の満洲人脈はつながっていたという貴重な証言を聞くことができました。
伊東先生は、石原莞爾亡き後も最終戦争後の恒久平和に最後まで夢を抱いた方だったそうですが、全国を股にかけての講演活動や執筆の合間を縫って、石原とともに培った東亜連盟の流れを汲む養生会の会合に出るために帰弘する機会を大事にしていたそうで、連盟の時代から戦後弘前の市政教育を担った人材が結集してきた養生会に先生のエッセンスと思いは伝えられてきたのです。
こうしてみると、叔母のおかげで満洲国の中枢にかかわった工藤忠・伊東六十次郎をつなぐところに我が家がつながっていたということがハッキリしましたし、それが戦後の弘前にまでつながることがわかり、歴史をさぐる手がかりが大きく拡がった気がします。

叔母との面会の前には「皇帝の森」を再訪したのですが、暑さ和らいだ頃に叔母を案内して旧交を温めながら今のうちに聞き出せることを教えてもらおうと思っています。
敗戦とともに消えた満洲国ですが、津軽と我が家にとっての満洲国は私の生涯における探求テーマとなった気がしますし、ひいては私の戦後は終わりません。

2015.08.15

1995年という節目

70年目の8月15日を迎えました。
もちろん、昭和天皇の玉音放送が正午に流された重要な日ですが、日本がポツダム宣言を受託したのは前日の14日、ミズーリ号で降伏文書に署名したのが9月2日であって、国際法上の敗戦日ではないというのはトリビアな知識です。
この敗戦記念日をふまえて、昨日は安倍総理が談話を出し、今日は戦没者追悼式典で天皇陛下がお言葉を述べられましたが、キーワードを盛りこまざるを得なくなったために談話というには冗長すぎる文章で、にもかかわらず自分の思いがこもっていない内容と棒読みでは、平和派はもちろん右翼からも受け入れられないレベルにとどまってしまったのに対し、陛下のお言葉は簡潔ながら自らと国民の思いを明確に主語にされており、思いの深さと伝えるための形においても、まったく比べものにならないものだったと思います。
この場を借りて、安倍晋三一派以外の国民と同じく、先の大戦の反省とアジアの人々へのおわびを表明し、日本を戦争をしない国として守っていくことを誓います。

それにしても、阿部談話を暴走させずに終わらせたのは、村山総理の戦後50年談話が世界的に評価されており、中韓との関係や公明党への配慮を考えた上でその枠組みを踏み外すわけにはいかなくなったのが大きいわけですが、今から振り返ると1995年という年は、まさに節目の年だったのだと改めて思います。
1月には阪神大震災が起きましたが、それから中越地震・中越沖地震そして東日本大震災が発生し、御嶽山や口之永良部島などの噴火も相次ぎ、これが日本列島を取り巻く地殻変動のはじまりだったわけです。
3月には、オウム真理教による地下鉄サリン事件がおき、バブル崩壊からはじまる今後の社会への不安が無差別テロという形になって暴発し、そこからはじまる社会の信頼感のなさは増幅していく一方です。
そして、自民党が下野する政治的混乱から生まれた自民党・社会党(現在の社民党)・新党さきがけ(現在は消滅)3党による連立政権で社会党から総理大臣となった村山総理は、戦後50年の節目にあたって国会決議ではなく総理談話という形式をもってアジア諸国への謝罪と反省を語ったわけですが、これが安倍一強といわれる独裁的な極右政権が見直しを図っても乗り越えることができないほどの壁となって、平和国家・日本を守る楯となっているわけですから、今にしても大きな意義を持つ談話が出されたのも、1995年でした。
当然ながら、この20年の間に変わったことも多いのですが、前後70年を振り返って未来を考えるよりも、自ら体験してきた20年を足場に改めてスタートする方がリアルなのではないでしょうか。

「もはや戦後ではない」と言われてから生まれた私ですが、いまだに戦後70年と数えられるのが今後も続くよう、平和を守っていくつもりです。

2015.08.14

「日本のいちばん長い日」の前に

お盆ではありますが、戦後70年の節目を迎える前に見ておかなくてはと思い、映画「日本のいちばん長い日」のために青森市まで足を伸ばしてきました。

「いちばん長い日」とは、もちろん1945年8月15日をさすのですが、原作では7月末のポツダム宣言が突きつけられてからを、映画では幕引き役を果たした鈴木貫太郎首相への大命降下から、太平洋戦争最終盤の政権中枢ではどのようなことがあったのかを克明に描いた内容です。
映画としてのできばえは、配役の重厚さや戦時中を伝える舞台選びなど見るべき価値があり、戦後70年ともなって敗戦記念日がいつなのか敵国はどこだったのかも知らない世代が増えているご時世だけに、ここで改めて描いておく意義はあるストーリーだとは思います。
ただし、本当にポツダム宣言から原爆投下・ソ連参戦まで至らなければ敗戦を受け入れることはできなかったのかという冷徹な分析は必要ですし、映画でも中枢の人物や兵士たちは登場してきても一般国民はほとんど出てこないように、天皇や軍隊と護るという国体護持には意を注いでも、長引いて本土空襲まで受けるほどの劣勢に立つ中で多くの兵士ばかりでなく国民までもが殺されていくのを少しでも早く終結させるという思いがなかったのを、映画の陰から読み取ることを忘れてはならないと思います。

それにしても残念なのは、この映画が弘前市で上映されていないことです。
シネコン側の配給戦略によるものですからいかんともしがたいこともあるでしょうが、津軽や青森県を舞台にしたものなら先行上映やロングランともなることがあるだけに、かつての第8師団司令部が置かれ軍都を標榜していたのですし、映画には登場しませんでしたが昭和天皇の弟で大隊長として弘前市に赴任在住されたこともある秩父宮様とのご縁もあるのですから、この映画はぜひにも上映してほしかったと思います。
弘前市は、軍都として真っ先に空襲を受けてもおかしくなかったのを、弘前城をはじめとする文化財が多いことで思いがけず空襲を逃れましたし、わが相馬村では食糧に困ることなく「すいとん」を食べた記憶もない高齢者がほとんどというくらい戦争の傷跡の少ない土地柄ではありますが、だからこそ余計に戦争を振り返る機会を大事にしなくてはならないと思うのです。
まあ、今の市政にそれを望むのは、旧師団長官舎をあろうことかスターバックスにしてしまうような仕打ちができるくらいですから、まさに負け犬の遠吠えでしかありません。

それでも私は、二人の祖父とも憲兵を務めていたという軍人の血を受け継ぐ者として、とりわけ父方の祖父は満洲に夢を託して中枢にかかわり70年前のその日に京城=ソウルにいたおかげで処刑を免れて帰国できた人だけに、皇国日本とあの戦争の罪を考えずにはいられません。
その思いを胸に刻んで、明日を迎えたいと思います。

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