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2015.05.27

予約型乗合タクシーを土俵に差し戻す

アリバイづくりの説明会を経て、昨年2月から支所のある五所地区以奥に予約型乗合タクシーが導入された相馬地区の公共交通ですが、1年半の実証実験から7月からの本格運行に切り替えるための説明会が開催されました。
明日も支所で説明会が予定されており、エリア的には私はそちらに出席する立場なのですが、実際に利用している方の人たちの声を聴きたかったので、フライング参加させてもらいました。

思ったとおり、地元の町会長方をはじめとして30人近い参集があり、元市職員として行政の裏表を知り尽くしている相馬・中沢町会長が口火を切って、そこからは周知不足のままで四角四面の運営に対する不満や予約でなくタクシーを短時間待機させる形の提言などが相次ぎ、所管課の責任者として回答にあたった都市計画課長も熱くなるほどの騒然とした雰囲気となりました。
開会から1時間になろうというところで私も手を上げて、一昨年の説明会も今回も結論ありきで住民にデータ提供もせずに押し切ろうという姿勢に問題があること、朝昼晩の3便でも従来の相馬停留所まで運行する代わりに全体の便数を減らすとかいっそのこと相馬地区全体を乗合タクシーに切り替えるといったいくつかのプランを一緒に考える機会を作ってじっくり考えるべきだと発言したところ、ようやく落ちついた課長の耳にも届いたようで、現行どおり運行を継続しながら地区や住民との意見交換を深めて方策をさぐっていくということで収まりました。
この内容は、中沢町会長もふれていたことでしたので、何だか手柄をかっさらった形になってしまいましたが、何とか話し合いの土俵までは戻すことになりそうですので、ひとまずホッとして帰路につきました。

ただ、市の独断専行を責めるのは簡単ですが、一方では常に受け身で決まってからだけ文句を言う私たちの側にも非があるのは認めなければなりません。
ちょうど明日は地区町会長会議があり、その議題は町会長研修の視察先の選定ですので、可能であれば北東北3県で公共交通の先進事例できれば住民主導で改善できた自治体から学ぶ機会にできればと思っています。

2015.05.26

負けを認めるということ

落選して1ヶ月、GWはとっくの昔、敗戦処理も済んだのですから、次の身の振り方を決めていなければならないだけの日数がたっているのですが、そうもできない事情もあって、最近は1日1冊の読書に明け暮れています。

この4年間の中で取り組もうと思ったことに、梁山泊!と銘打った中高年の就労支援プロジェクトがありましたが、そのことを思い返させるできごとがあったことから工藤啓・西田亮介『無業社会』に手がつき、この無業を生み出す社会の病理を考えるために本田由紀『もじれる社会』、内田樹『下流志向』と読み進んだところで、杉崎隆晴『競争の現代的意味』に出会いました。
この方は、弘前市在住でスポーツ心理学を専門とされており、先日の市議選にも深くかかわっているのですが、スポーツが持つ競争という視点から見た、学問・経済そして政治における真正な競争の不在、スポーツマンシップやフェアプレイの精神がないことによる問題点を鋭く博覧強記に掘り下げており、なぜ市政に問題提起しようと思ったのか理解できただけでなく、これだけの方がまったく注目もされず活躍もできないという不可思議な現実があることに反省と疑念を覚えました。

これは弘前市だけではなく日本全体の問題と思いを強くし、さらに『偽りの戦後日本』『日本戦後史論』と続けて読んでいますが、両著で対談している白井聡さんは『永続敗戦論』というデビュー作で注目を集める新進気鋭の政治学者です。
白井さんは、敗戦を終戦と呼び換えたばかりでなく、戦時中の政治経済の中枢にいた者たちが対米従属を通じて対米自立を果たすという方向でそのまま戦後の舵取りをしてきたことで、真の敗戦の反省が生まれなかったことを喝破しています。
杉崎さんの競争においても、必ず勝者と敗者が生まれるわけですが、そこで負けを認めないで済めば気は楽かも知れませんが、次にどうすればいいかを真剣に考えることからは離れてしまいますし、国として戦争に負けたことを認めずにきたことのツケを払うどころかなかったこととして戦争できる国にしようという総理大臣とお友だちまで出てきてしまうのですから、改めて間違いの大きさと立ち戻る勇気が必要だと思います。

そこで翻って我がこととしての負けということを考えてみると、選挙に行く人たちの特性を考えずに戦術を組んだことが何よりの敗因だと、これらの著作からも改めて学んだところです。
日本人のおよそ8割が受け身の態度で生きており、戦争に引きずりこまれた被害者と思っていたり、下流として生きていくのに甘んじてしまうような「ボーッとした」感覚で、競争することとは無縁の存在であって、選挙の際も政策の良し悪しや実行力などを検討することもなく「○○から頼まれたから」「地元だから」という主体性のない立場で投票するのがわかっているのに、当選後のしがらみの活動のために政策を訴えて人に頼らないという正攻法すぎる戦術では太刀打ちできないのは当然です。
こうしてみると、8年前は若さもあり福祉施設経営者として関係者からの支援もあり、そして親族をあげての態勢があって何より親不孝のレッテルも貼られていないというプラスがあったわけですし、私の嫌いな野村克也監督の言葉ですが、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのは真実だと得心します。
それでも私がやりたかったのは、この状況この戦術でも支持してもらったという実績を生み出し、そこから新時代の議員としての活動をスタートすることが市政を変える第一歩であるべきだという思いからでしたので、負けを認めた上で然らば市民の意識を変えるにはどんな手を打つべきかを考えてみるのが筋だと思っていますし、そこに同じ思いを抱く杉崎さんのような方とめぐり会っただけでも選挙を打った甲斐があると思っています。

もう一つ、負けを認めることでは、私に手本を示してくれた祖父のことを思い出します。
以前にも書きましたが、祖父は曾祖父との折り合いが悪かったこともあり、家業の農業を嫌って軍人となり憲兵まで務めた後に満洲国建国に深くかかわり、敗戦して引き上げてからは恩給で生活しながら孫である私の面倒を見てくれていました。
敗戦必至の情勢となって、自分を引き立ててくれた溥儀皇帝の侍従武官長・工藤忠が3月に引き上げた際も「日本が負けるわけがない」と突っぱねるほど神州不滅を信じていたのだそうで、39歳で夢破れてからは農業はもちろん定職にも就かず教養人として教育委員や議員といった特別職のみで過ごしていましたが、これは一つの負けを認めた生きざまだと思いますし、私にとっては将棋や書道を教えてくれたり軍隊時代の八甲田山遭難事件の弔い行軍の話を教えてくれる威厳のある祖父でした。
ただし、そのせいで商家の生まれで農作業のできない祖母は役立たずとして離縁させられ、その恨みもあって父は祖父を憎み、そのせいか農業もその後のタクシー会社も立ちゆかなくなる前にやめるという負けから逃げる生き方をしてきただけに、私が乾坤一擲の勝負をすることも理解ができないのだと思います。
一説によれば、安倍晋三は父方の祖父は大政翼賛会から非推薦とされた反戦代議士だったにもかかわらず父・晋太郎とそりが合わないことで母方の祖父・岸信介を追慕しているのだそうですが、同じ父嫌いで祖父が満州にかかわるという同じ境遇でも、負けを認めたか、そこから何を学んだかでこれほどの思索の違いとなるのですから、正しく学ぶこと深く考えることの大切さを思わずにはいられません。

さて、思っているばかりでは自分自身も世の中も変わりません。そろそろ、動くといたします。

2015.05.17

飯舘村から脱原発を考える

呼びかけ人になっているわりにはなかなか参加協力できずにきた「脱原発弘前映画祭」に、今回は何とか足を運ぶことができました。

今回のメインは、飯舘村の酪農家・長谷川健一さんが自ら撮影してきた映像をまとめたドキュメンタリー「飯舘村 わたしの記録」とご本人による講演でしたが、大震災以前は日本一美しい村づくりを「までい」(=ていねいに趣を加えた方言)をスローガンに掲げる菅野村長の盟友としてともに取り組んできた方が、どのような経験をしてきたのかが映画から伝わり、どのような経緯をたどって全村避難に至ったのか、そこでどのようなことがあって菅野村長と袂を分かつことになったのかを講演で赤裸々に語ってくださいました。
実は、菅野村長は理想の村づくりをめざす仲間として何度か相馬村を訪問して講演されたこともあり、そのご縁で避難後にも支援を求めて農協女性部の方々が相馬村を訪ねてこられたことがあって、その際にも避難のことで村が割れていることを聞いていましたし、隣接している南相馬「こどものつばさ」への協力などで訪問した際にも関連する噂にふれることがありましたが、村民の半分以上がADR=紛争解決センターへの申立団に加わっているのに行政側は支援するどころか切り崩しに動くまでの対立となっているとは、想像以上のことでした。
長谷川さんは、村民側の先頭に立って最終的には村長リコールも辞さずの覚悟で動いているのだそうで、講演や著作を通じて真実を伝える活動をしていますので、ぜひ皆さんにも関心を持っていただきたいと思いますし、私個人としては帰村より命を大事に考える長谷川さんを応援したいと思います。

その飯舘村を、南相馬に行く際に何度か通過したことがありますが、大震災の被害が見えない美しい山村にまったく人の姿が見えない異様な光景に、地震や津波という天災ではなく原発事故という人災のむごさを感じましたし、こんな遠くの山の中でも人が住めなくなるほどの被害をもたらす核エネルギーの怖さに背筋が寒くなる思いをしたものです。
そればかりか、一番強い絆で結ばれていたはずのリーダー二人の仲を引き裂くほどの対立を村にもたらし、仮に帰村宣言が出されたとしても元の村民が顔をそろえることがかなわなくなっている現実を思うと、飯舘村が東日本大震災そして福嶋第Ⅰ原発事故の最大の被害地だと思います。
南相馬・大槌そして野田村でも、大震災に立ち向かう人たちの陰で見聞きする裏の話は枚挙に暇がありませんし、とりわけ原発事故での避難生活にかかわる影の部分を知るにつけ、これだけの広範な被害を及ぼす原発という存在を認めるわけにはいきませんし、それを再稼働させようとする政治や経済の勢力とは並び立つわけにはいかないと思っています。

脱原発そして反核という立場で、一市民としてできることはこれからもこれまで以上に協力していくつもりです。

2015.05.16

野田村、不安と希望

野田村といえば一番の産物は天然の海水からつくる「のだ塩」ですが、横浜市に本社を置くネパリ・バザードという主にネパールとのフェアトレードを行っている会社が東日本大震災の支援に取り組む中で陸前高田の柚子とコラボする商品開発を行ったのがきっかけで、今年中に山ぶどうのワイナリーを作る計画が持ち上がり、そのキックオフとしてネパールの塩の道をテーマにした映画「ヒマラヤ」上映と野田村の未来を語るシンポジウムを開催するというので、半月ぶりに足を伸ばしました。

映画は、ヒマラヤで塩を何日もかけて運んで食料を手に入れて暮らすドルポという村が舞台で、跡継ぎと思っていた息子の事故死を親友の若者のせいだと疑う長老と、その若者がこれまでの掟を破って新しい時代を切り開いていこうとする旅を描いたもので、復興という新時代を創っていく野田村と重なる内容でした。
その後のシンポジウムは、だらすこ工房の大澤継彌さん、チーム北リアス現地事務所長で「のだ塩」復活の立役者でもある貫牛利一さん、そして震災後に戻ってきてデザイン事務所のカメラマンとして働いている20代の大沢航平君で、世代も立場も違う3人がそれぞれの経験と思いを語り合う内容で、非常に濃密なものになりました。
3人とも、震災のダメージから抜け出した取り組みをしており、積極的に外聞の人間とかかわる中で、野田村を好きになってもらおうという気持ちにあふれており、今回はネパリ・バラードが企画したツアーに参加してこられた30人以上の方々にもきっと思いが伝わったことと思います。

ただ、「のだ塩」と山ぶどうワインを生産する第3セクター「のだむら」の社長でもある小田村長は最初から最後までいらっしゃいましたが、3セク関係者以外の村民は映画の時も少なく、シンポジウムではほとんど外部の人ばかりだったことが気になりました。
確かに、継彌さんのように元々口下手だった方が話すことも恩返しと思って積極的にかかわるようになった方もいますが、私にしても仮設住宅に入った方のうち半分はお会いすることもなく4年が過ぎていますし、航平君のような若い世代とはほとんどコンタクトがないのも現実です。
せっかく新しい取り組みがはじまるにしても、そこに村の人間が中核を担う形にならなければ、復興を超えた新しい村づくりには進んでいかないのですから、非常に気がかりです。
それでも、小田村長も航平君や息子の洋介君のように戻ってくる若者がいることに期待していると話していたとおり、まだまだ時間のかかる復興なのですから、少しずつ希望の粒が増えていくのだと思いたいところです。

ところで、5年目の野田村の新たな動きに、それでは私はどうかかわるのか、それこそが身の振り方ともかち合うことだけに、真剣に考えなくてはならないと思います。

2015.05.15

町会連合会再生のために

4回目となる弘前市町会連合会総会に出席しました。
議員として発言する機会は得られませんでしたが、町会長として町会連合会を通じて市のまちづくりや市民自治にかかわることには提言することはできますので、私にとっては大事な機会です。

今回は、最初から健康づくりサポーターの件で、町会連合会が唯々諾々と町会未加入者のためにも活動するサポーターの活動に協力するのは連合会の自主独立の本義に反することを指摘するつもりで臨みましたが、事業計画案の説明の中で情報交換に関してFacebookを活用するという具体的で思いがけない話が出てきたので、それに関連する形でいくつか質問することになりました。
大谷事務局長の答弁によれば、所管課である市民協働政策課の協力をいただいて市のサイト内にスペースを確保するとともに情報発信でも支援してもらうとのことでしたが、ほとんどが60歳どころか70歳以上の町会長の方々にFacebookと言われても理解もできないでしょうし、SNSの双方向性を考えれば事務局からの一方的な情報提供ではなく町会での活動を紹介することが大事であり、そのためにも八戸市で先行している広報紙コンクールを企画して、市民にも町会活動を知ってもらうことが未加入者への働きかけにもつながると提言しました。
また、こういう新たな取り組みは御大ぞろいの理事会では無理なので理事会内にプロジェクトチームを作るのではなくて理事会がチームを設置して若手の町会長や役員に参画してもらう形を取るべきだと発言しておきましたが、そこで場内から笑いが出たのは賛同の表れと心強く思いました。

私の前に質問に立った町会長さんからは、加入率の低下や連合会などへの負担金が重くのしかかって町会活動に無理が生じていることや、せっかく積極的な取り組みをしていてもごみ袋販売だけが表彰されるのはおかしいといった声を上がっていて、町会のあり方そして連合会のあり方に批判や疑念が強まっているのが現実です。
4月から施行されている「協働のまちづくり基本条例」では町会は重要な一角を占める存在なのですが、それだけの位置づけをいただいたことを新年度に生かしていくという方針も出ていなかったので、これも指摘しておきましたが、市の業務の下請け機関ではなく市民自治の中核を担う立場なのだという気概を持って果たしていかなくてはならない役割があると思いますし、私自身も町会長として連合会の一員としてやるべきことがあると思っています。

Facebookやコンクールのことで言い出しっぺがやりなさいということでしたら、いつでも動くつもりですし、それが町会連合会を再生させる足がかりになると思っています。

2015.05.10

これでいいのか、スポーツ環境

小学校の陸上クラブのコーチをするようになって8年、4年前は人数も減って希望者がいなければやめるつもりだったところに4年生の女子2人からやりたいという申しこみがあって続けることになり、そこからメンバーが増える一方で今年も20名の子どもたちを預かることになっている以上、職を見つけるまでは役割を果たさなくてはなりません。

選挙とGWでなかなかトレができないままでしたが、今年初めての大会で改修を終えた運動公園陸上競技場に足を運びました。
外見がきれいになったのはわかりましたが、スタンドが大きくなったわけでもなくグラウンドが広くなったわけでもないばかりか、スタート用の機材の不具合で何度もやり直しになるようでは、全国規模の大会など誘致できるとは思えませんでした。
この改修では陸上競技場本体ばかりでなく、陸上関係者からすればサブトラック(サッカー・ラグビー関係者からすればフットボールグラウンド)の外周にフェンスが張りめぐらされて、これでは使いづらいなあと思っていましたら、当日はこんなスタンドもないところでブランデュー弘前のホームゲームが行われるということで、まったく使うわけにはいかない状況でした。
さらに、はるか夢球場でも試合があったせいで、駐車場では収まらなくなった自動車が次々と誘導されてきて、サブトラックどころか空きスペースでもウォーミングアップをさせることも難しい状況になってしまいました。
これだけでも競技に集中させるのが大変なのですが、ブランデューの試合開始が近づくにつれて音楽や鳴り物の音量が大きくなり、一番肝心なスタートに集中するのが困難な状況で、いくら小学生の大会とはいっても本当にかわいそうな決勝レースになってしまいました。(ちなみに、帰宅した時間帯に放映されていた陸上グランプリ大会では、スタート前に「シーッ」という音が放送されていたように、スタンドまで静かにして集中させる配慮がされていたくらいで、当然外からの音でじゃまされるなどということはあり得ません)
4月にも仙台への楽天戦観戦ツアーが行われるなど、プロ野球公式戦誘致が最優先で動いているようですが、スタンドの増築ばかりでなく駐車場の確保に問題があるのは以前からわかっていることですし、これだけ競技場が近接していては同時に大会を行うことは不可能というのが明白になった以上、まずはフットボールグラウンドを移転させてスペースを確保するところから検討すべきだと、改めて思いました。

これを議場でしっかりと論議できる立場であればと、後の祭りの思いが募ってしまいますが、ネットの場でも思ったことはしっかり発信して、市民の皆さんと考えることは続けていかなくてはと思っています。
議員という立場を再びめざすかどうかはともかく、市政の問題をただしていくことはやめるつもりはありません。それが政治にかかわるということですし、政治家としての矜持です。

2015.05.01

素浪人5年目も野田村から

当選していれば、日程変更か別の人に運転手をお願いしなければならなかった野田村での月例ヨーガ教室ですが、皮肉にも予定どおり自分で行くことができる形になり、素浪人5年目の初日を4年前と同じく野田村での活動で過ごしました。

4年前は、この日が2回目の訪問であり、まだ避難所がどこにあるのか、そこにどんな人たちがいるのかまったく知らなかったのですが、今日は毎回のように参加してくださる顔ぶれに「(選挙)お疲れ様」と気づかっていただき、だらすこ工房のお父さん方と話しこみ、避難所だった野田小学校に米田集会所、えぼし荘、そして海蔵院を回って、4年前との違いを実感してきました。
ヨーガ教室を開催している野田中学校仮設住宅にしても、4年前には半月後の入居に向けて工事の真っ最中でしたし、それが来年の今頃には野球グラウンドに戻す工事に取りかかっているはずですから、被災地での時の移り変わりの早さを思わずにはいられません。
それ以上に変わったのは、野田村と私との関係で、4年前には自分の意気ごみしかなかったのが、1070回も通っている中で何度も村の皆さんの温かさや豊かな自然に励まされて、私にとっては被災地ではなくフルサトとしか思えなくなるほどの思い入れのある地域になったことで、今日も暑さのせいか夏色を思わせる野田村の穏やかな海を見ていると、救われる思いがしました。
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野田村に通うことは、何があっても続けますが、これから変わらなければならないのは、素浪人であることです。
これまでの4年間は、必ず返り咲くという思いで議場に立たない以外は議員並みの活動をしてきましたが、さすがに今度は定職に就いて生活を立て直し、父であり夫である立場を最優先していくのが先決だと思っています。
その意味では、素浪人としての5年目は、なるべく早めにケリをつけなければなりません。

まだ、どこで何をという具体の話はありませんが、まずは再スタートすることをお知らせしておきます。

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