« 伏魔殿への足がかりをつくる | トップページ | 津軽が忘れてはならないこと »

2013.05.26

「八重の桜」から津軽が学ぶべきこと

今年のNHKは大河ドラマは会津の「八重の桜」、朝のTV小説は北三陸の「あまちゃん」と、東北が舞台だけに珍しく毎回欠かさず見ています。
野田村通いのおかげで裏話もわかる「あまちゃん」には人一倍楽しませてもらっていますが、一方の「八重の桜」は戊辰戦争へと進むにつれて、正座をして涙を流さずには見られなくなっています。
その思いはどこから来るのか、記しておきたいと思います。

会津と弘前、ともに東北を代表する城下町で、片や徳川御家門の名家・松平氏が治め、こちらは下克上の外様大名・津軽氏の領地、その幕府との距離の違いが幕末の歩みを分けたのですが、知られていないところでより違いが際だつエピソードがいくつかあります。
京都守護職として孝明天皇の信任も篤かった会津藩ですが、鳥羽伏見の戦以来は朝敵の汚名を着せられ、これを不服とした東北や北陸の諸藩は奥羽列列藩同盟を結び薩長新政府に対抗しますが、弘前藩は継嗣をいただいた近衛家からの情報を頼っていち早く脱盟して新政府方につき、同盟方に残っていた盛岡藩との境界に位置する野辺地に攻めこんで逆に多数の戦死者を出すという醜態を歴史に残しています。
これにひきかえ、会津は家訓を守って徳川宗家への忠義を貫き、「ならぬものはならぬ」の教えのとおり鶴ヶ城落城まで戦い、そこから盛岡藩のうちでも不毛の地に「斗南藩」として追われたので、その後の廃藩置県で半分は「官軍」、残り半分は「賊軍」に属する対立の構図の上に青森県が成立したのです。
私も、戦国時代の津軽氏の下克上の歴史は知悉していましたが、以前鹿児島を訪ねた際の書きぶりでもわかるとおり会津=斗南の歴史は門外漢と言ってもいいレベルでしたので、その際乗ったタクシーの運転手さんが青森から来たと言ったとたん、「会津の皆様には顔向けできない」と平謝りしたのが大仰すぎると思っていたのですが、今回のドラマで途中で手のひらを返して会津を朝敵に追いやった薩摩の立場からのおわびだったのが、やっとわかった気がしますし、津軽こそ会津にわびるべきだと思わずにはいられません。

もう一つ、先日「飛耳長目ネット」を立ち上げるほど私は吉田松陰を敬慕してやまないのですが、その東北行の際には会津にも津軽にも立ち寄ったのですが、会津からは新島八重の兄である山本覚馬のような同志を輩出したのに、津軽には松陰室は残れど維新前後で全国にとどろく人材を生み出したり藩政改革につながるまでの影響は残らなかったと言ってよいでしょう。
ドラマでは頑固と言われる会津でも改革の必要性を感じ取って動いたのが描かれていますが、津軽ではそこまで真剣に受けとめていず、脱盟の振る舞いを見ても大義を守ることより我が身を守るために機を見るに敏であったことしか伝わりません。
そうであったからこそ弘前城が築城の姿のまま残ることになったのであり、薩摩が日本という国のために薩長同盟から倒幕に動いたのは正しい判断だったと思いますが、だからこそ敗れた会津の魂に思いを寄せ、そこから学ばなければならないと思うのです。

巷では視聴率で苦戦していると伝えられる「八重の桜」ですが、会津を二度も敗れさせるわけにはいきません。
一人でも多くの人に見てもらい、義を守ることの大切さを学び感動してほしいと願うばかりです。

« 伏魔殿への足がかりをつくる | トップページ | 津軽が忘れてはならないこと »

思い」カテゴリの記事

歴史・文化」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/27994/57466093

この記事へのトラックバック一覧です: 「八重の桜」から津軽が学ぶべきこと:

« 伏魔殿への足がかりをつくる | トップページ | 津軽が忘れてはならないこと »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最近のトラックバック

Twitter

ブクログ

Amazon


  • サーチ:
    キーワード:
    Amazon.co.jp のロゴ

国際漫画展

無料ブログはココログ