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2013.05.28

憲法を考える上で、津軽の若者に伝えたいこと

戦国時代から徳川幕府の成立、幕末から明治維新という二つの大きな節目の中で、津軽が学ぶべきこと忘れてならないことを書き連ねましたが、もう一つの大きな節目である日中戦争から敗戦までの中で忘れてはならないことがあるのは、さらに知られていませんし、今日市立図書館で書物を渉猟してもまとまったものがないと確認できましたので、私が知っている知識の断片を紹介します。

だいぶ前に書いたとおり、私の祖父は憲兵の職を投げ打って満州国侍従武官長を務めた板柳町出身の工藤忠氏に縁戚を頼って渡満し、聞いたところでは首都・新京市の初代警察署長からはじまって満鉄系の国策会社などで幹部として働いた経歴の人間でした。
そのため、私が生まれて母が「直樹」と命名したのを聞いて、満州で世話になった人の名だと喜んだのだそうですが、それは当時「二き三すけ」と呼ばれた満州国建設の立役者の一人、星野直樹をさしてのことだったようです。ちなみに、「き」のもう一人は東条英機、「すけ」の一人は安倍晋三首相の祖父・岸信介です。

このルート以外に、満州国建設に五族協和の夢を描いてわたった人も多く、そこには明治期以来の名家・伊東家の出身で東京帝大史学科を卒業し、北一輝・大川周明などとも交遊し、石原莞爾の「最終戦総論」には名前が出てくるほど思想的影響を与えた伊東六十次郎が満州国に長くかかわったことも大きな要因です。
当時の弘前では、渡満した人々ばかりでなく、養生会が東亜連盟弘前支部として大々的に活動し、そこには戦後弘前の市政教育に大きく貢献した小田桐孫一・鳴海修などの著名な方々の若き日の姿もあったようです。
六十次郎氏は戦後11年間ものシベリア抑留を経て帰国し、その後も最終戦総論とは戦争がなくなる社会の実現であるとの趣旨にもとづいた主張を続けたのですが、石原莞爾に連なる思想であることからか弘前においても隠されたような存在であり、まとまった評伝も存在しないようです。

一方、祖父の話に戻ると、不敗の皇国日本を信じていたようで、工藤氏が満州を去っても敗戦までとどまっていたのですが、満州国の理想である五族協和を地で行く接し方をしていたおかげで他の日本人の家が焼き討ちにあう中で「三上さんだけは、よくしてくれた」と助けてもらって引き揚げることができたのだそうです。
祖父は敗戦当時39歳であったのですが、理想の喪失と敗戦のショックからか公職追放が解かれた後も元々不和であった曾祖父が仕切る農家の仕事をすることはなく、議員や教育委員の特別職をしながら孫である私に書や将棋を教えて晩年を過ごしていたのを覚えていますが、軍隊時代の雪中行軍の追悼演習の話はしても戦争や満州のことは何も語らなかったのには、それだけの意味があると思います。
今、祖父の悲願と改憲に突き進もうとする安倍総理ですが、私は同じ満州国に縁を持つ者として、理想を持って設立したといってもまごうことなき侵略行為であり、その結末として多くの戦死者・抑留者・残留孤児を生み出してしまった行いを追慕回帰しようとする姿勢は、歴史に学べない者の態度だと思いますし、それは岸信介がA級戦犯とされながらも復権したことの受けとめ方に生まれつきの間違いがあるのだと思っています。

ところで先日、JC主催の憲法アクションDaysがありましたので、このことをふまえた発言をしましたが、同年代の津軽の若者が満州国に夢を追ったこと、戦争で多くの仲間を失ったことが伝わらずにきた中で、時代の流れで改憲へとハンドルを安易に切ろうとするのを止めるのが、先輩であり歴史を学んだ当事者の子孫のすべきことだと思っています。
JC諸君、いつでも憲法のこと戦争のことを語り合いますよ。

2013.05.27

津軽が忘れてはならないこと

昨日のBlogで書き漏らしたことがありますので、改めて津軽が歴史から学ぶべきこと顧みるべきことを記しておきます。

津軽の歴史において一番大きなできごとは、何といっても藩祖・津軽為信公の南部氏からの独立です。
南部氏より一足早く小田原に駆けつけて豊臣秀吉に所領を安堵され、その後関ヶ原の戦では東軍に自分と次男・信牧公がつき西軍には長男・信建を向けるという両面作戦をとり、徳川の時代になっても信牧公は元々の正室であった石田三成の娘を側室におとして家康の孫娘・満天姫を正室とするという、生きのびる手だてを必死にさぐっていきました。
その後、現在では破綻した東照宮が全国で初めて日光以外に建立されるほど徳川からの信任を得て幕末まで津軽を治めることになったのですが、それにもかかわらず大名としての地位を認めてくれた豊臣への恩義をひっそりと堅く守ってきたことは、ほとんど知られていません。
為信公の祖廟は革秀寺にありますが、そこに安置されている豊臣秀吉像は元々本丸北の石垣に隠されて祀られていたのだそうで、自らの礎の場におくという思いがあったことがうかがわれます。

Sobyou

これだけの恩義を忘れないという思いがどこかで薄れていき、現代にはまったくといっていいほど伝わっていないことが、津軽が歴史から学ぶことをしていない証明であり、本当に残念に思っています。

これだけあれば、歴史に学ぼうで済むのですが、時代を下るに従って都合の悪いことは伝えないという悪弊が上塗りされてきました。その最大のものは、斜里での蝦夷地警護殉難の秘史です。
1807年にあったこの事件は、あろうことか藩の日記にもふれられず戦後になるまで知られていなかったのですが、幕府からはその働きが認められ十万石へと加増を受けているのです。
この事件が、歴史に向き合うことを避け、歴史から学ぶ姿勢を失わせる転機になったと、私は考えます。

当時の藩主をはじめとする方々も、その時その時での最善の判断と思って事件の秘匿や脱盟をしてきたのでしょうが、その歴史を引き継いで津軽の地に生きる者としては、その事実を知り評価しながら今に生かすことをしなければなりません。
ことに殉難と脱盟の件は、自分たちさえよければという発想が強いだけに、反面教師として学ばなければならないことだと思いますが、豊臣秀吉像を納めて築いた弘前城築城400年に東日本大震災がおき、自分たちのためでなく東北のために桜まつりを開催しよう震災支援に取り組もうとしたことは、こうしてみると歴史の流れを変える、津軽の気風を古に戻す大英断だったと評価できると思います。
その意味でも、歴史に学び未来につなげる取り組みを広げることも、歴史を専攻した者の務めです。

【追記】
この二つの投稿に、さまざまな形で意見をいただきました。ありがとうございます。
コメントとしてではなく、追記の形で回答としたいと思います。

藩の行いで津軽の人々を決めつけるのは〜ということに関しては、会津の「ならぬものはならぬ」は士族階級の教えだと思いますが、それをもって会津の精神といわれるように、当時の藩の姿勢で語るしかない時代と階級社会という制約があると思います。
その農民の方々が苦しんだ天明・天保の飢饉は江戸時代の津軽にとっても一大事であったと思いますが、これを受けて武士階級で変わるものがあったかといえば疑問符がつくのも、時代のありようだったと思います。
このような、民衆の側から考えられるだけの資料があれば改めて見直すべきだと思いますが、当時の政事を動かしていた立場にあった人たちの所業から読み取れるものを抽出したのだと、ご理解ください。

2013.05.26

「八重の桜」から津軽が学ぶべきこと

今年のNHKは大河ドラマは会津の「八重の桜」、朝のTV小説は北三陸の「あまちゃん」と、東北が舞台だけに珍しく毎回欠かさず見ています。
野田村通いのおかげで裏話もわかる「あまちゃん」には人一倍楽しませてもらっていますが、一方の「八重の桜」は戊辰戦争へと進むにつれて、正座をして涙を流さずには見られなくなっています。
その思いはどこから来るのか、記しておきたいと思います。

会津と弘前、ともに東北を代表する城下町で、片や徳川御家門の名家・松平氏が治め、こちらは下克上の外様大名・津軽氏の領地、その幕府との距離の違いが幕末の歩みを分けたのですが、知られていないところでより違いが際だつエピソードがいくつかあります。
京都守護職として孝明天皇の信任も篤かった会津藩ですが、鳥羽伏見の戦以来は朝敵の汚名を着せられ、これを不服とした東北や北陸の諸藩は奥羽列列藩同盟を結び薩長新政府に対抗しますが、弘前藩は継嗣をいただいた近衛家からの情報を頼っていち早く脱盟して新政府方につき、同盟方に残っていた盛岡藩との境界に位置する野辺地に攻めこんで逆に多数の戦死者を出すという醜態を歴史に残しています。
これにひきかえ、会津は家訓を守って徳川宗家への忠義を貫き、「ならぬものはならぬ」の教えのとおり鶴ヶ城落城まで戦い、そこから盛岡藩のうちでも不毛の地に「斗南藩」として追われたので、その後の廃藩置県で半分は「官軍」、残り半分は「賊軍」に属する対立の構図の上に青森県が成立したのです。
私も、戦国時代の津軽氏の下克上の歴史は知悉していましたが、以前鹿児島を訪ねた際の書きぶりでもわかるとおり会津=斗南の歴史は門外漢と言ってもいいレベルでしたので、その際乗ったタクシーの運転手さんが青森から来たと言ったとたん、「会津の皆様には顔向けできない」と平謝りしたのが大仰すぎると思っていたのですが、今回のドラマで途中で手のひらを返して会津を朝敵に追いやった薩摩の立場からのおわびだったのが、やっとわかった気がしますし、津軽こそ会津にわびるべきだと思わずにはいられません。

もう一つ、先日「飛耳長目ネット」を立ち上げるほど私は吉田松陰を敬慕してやまないのですが、その東北行の際には会津にも津軽にも立ち寄ったのですが、会津からは新島八重の兄である山本覚馬のような同志を輩出したのに、津軽には松陰室は残れど維新前後で全国にとどろく人材を生み出したり藩政改革につながるまでの影響は残らなかったと言ってよいでしょう。
ドラマでは頑固と言われる会津でも改革の必要性を感じ取って動いたのが描かれていますが、津軽ではそこまで真剣に受けとめていず、脱盟の振る舞いを見ても大義を守ることより我が身を守るために機を見るに敏であったことしか伝わりません。
そうであったからこそ弘前城が築城の姿のまま残ることになったのであり、薩摩が日本という国のために薩長同盟から倒幕に動いたのは正しい判断だったと思いますが、だからこそ敗れた会津の魂に思いを寄せ、そこから学ばなければならないと思うのです。

巷では視聴率で苦戦していると伝えられる「八重の桜」ですが、会津を二度も敗れさせるわけにはいきません。
一人でも多くの人に見てもらい、義を守ることの大切さを学び感動してほしいと願うばかりです。

2013.05.15

伏魔殿への足がかりをつくる

昨年の総会の様子を「伏魔殿」と表現させてもらった弘前市町会連合会総会に、今年も相馬地区13町会の町会長ともども参加しました。
大きく変わった点としては、事務局長が3月に定年退職した大谷会計管理者が就任されたこと、それから実際の議事に入ってからは神会長自らがまず答弁に立つという姿勢で臨んだこと、また議題の中に昨年してきた総会の成立要件としての過半数出席を盛りこんだ会則改正があったことでした。

これらのことは評価するとして、今回も有名無実の「りんごを食べる日」への協力がうたわれていたので、他の町会長から質問もあった自主防災組織やまちづくり1%システムこそ計画に盛るべきだということ、同じく昨年も指摘したように市から何の委嘱もされていないにもかかわらず依頼業務を背負わなければならない町会長の身分のあり方を理事会で協議してほしいこと、そして新たに市からの補助が少ないと嘆く発言をしているが現実には補助金をもらう側の町会が市の職員に事務代行してもらって補助金を得ているのは職員本来の仕事時間を削るという損失を与えていることなので、自主財源不足というならば事務局が事務代行して手数料を町会から取ればいいと「提言」しておきました。

もう少し趣旨を説明しますと、町会長の身分の件は岩木・相馬地区で以前行われていた行政連絡員といった市から委嘱された立場で責任を持ってやるべき仕事が、次から次へと依頼されてくることでいいのかという問題を、正式に理事会で協議する形になるよう公の場で質問したものです。
これは、壇上にあって自ら発言できない三上鶴雄地区連合会長や、この矛盾に納得いかない町会長方の意を汲んだものですので、終わってからの懇親会でもおほめの言葉をいただきました。
一方事務代行の件は、多くの町会ではご老体の町会長であることもあり、市の側が進んで事務代行していて印だけ持ってきてくださいといった「配慮」をしているのが実態なのですが、それは本来業務であるはずがないのにもかかわらず、私のように様式を添付ファイルで送ってくれといったり自ら作成して提出しようとすると怪訝な態度を取られるほど、職員がやってあげて当たり前という風潮がしみこんでしまっています。
市として見直すべき問題だと思いますし、町会においてもこれらの事務ができる人間に役員として入ってもらわなければ収入が減り事業に困るという環境に置かれれば世代交代も進む契機になるはずです。

ちょうど、市の実務に詳しい大谷さんが事務局長になったので、どれだけの事業で事務代行が行われているか調べてほしいと市議/部長時代の感覚で意見してまとめましたが、新時代の町会自治に変えていくためには強力な援軍が入ってくれたと思っていますので、これからが伏魔殿突破の本番です。

2013.05.01

「飛耳長目ネット」設立の思い

素浪人3年目の本日、「飛耳長目ネット」を立ち上げました。
そこに設立の目論見をまとめてありますので、こちらにはこれにまつわる吉田松陰への思いを記しておきたいと思います。

Yoshida Shoin2

私が一番最初に吉田松陰を知ったのは、中学入学の前後に放映されていた大河ドラマ「花神」でした。
他の幕末ものと違って、主人公が大村益次郎で維新前夜の長州の群像を描いた異色なストーリーでしたが、その中で一番印象に残ったのは篠田三郎さんが演じた吉田松陰でした。
篠田さんそのままと言ってもよいほどのまじめで素直な性格なのに、ペリーの黒船に乗ろうと試みる大胆な行動、我が身のことより岡本信人さん演じる弟子の様態を気にかけて悲憤慷慨する情の厚さなど見事に演じられ、清冽ながら強烈な印象を残してくれました。

その後、大学では日本史学科に進み歴史小説も好んで読んできましたが、とりたてて松陰研究にのめりこむことはなく過ぎてきたのですが、私にとって転機となった取り組みの中で松陰を思い出す機会がありました。
葛西市長が当選された選挙に際し、私は有志とともに当時の市政を憂いて「市政を変えるマニフェスト」づくりを進め、そのきっかけとなった発言とあわせて市長選出馬を考えていると見られることになったのですが、当時の公式記者会見で葛西候補支援と自らの不出馬を表明した陰には、仲間の内には経済界の若手リーダーが数名加わってくれており、ここで割れると彼らの将来や仕事そのものに傷をつけてしまうことを避けたいという思いもありました。
それを伝えて飲み語らう席があったのですが、そのうちの一人がマニフェストの活動を通じての私のことを、「こういう大事なことを突きつめて考えようとするのは、吉田松陰のようだ」と過分の評価をしてくれたのが無念の思いを打ち消すほどの記憶に残り、そこから私自身がもっと松陰を知らなければと学びはじめて、松下村塾という場のことばかりでなく飛耳長目という姿勢と取り組みを知ることになったのです。
ちなみに、今年の大河ドラマ「八重の桜」では小栗旬演じる松陰が脱藩した形で会津を訪ね、八重の兄である山本覚馬と出会い親交がはじまったのが描かれていまして、そこから津軽の果て竜飛崎まで足を伸ばしたエピソードにつながるだけに、松陰や佐久間象山・勝海舟とも親交のあった覚馬という人物に強い関心を持つことになったのも、松陰という磁場がなせる業と感じています。

ところで、設立表明に関心や賛同してくれる人はあれども、実際に会員になろうとまでの行動をしてくれる志士は未だ現れておりません。
これは、私一人がやむにやまれぬ思いで立ち上がったことですし、その思いがまだ伝わるほどの行動に現れていない感じてもらえるまでになっていないということですから、これならば支援したい協力したいと思わせるだけの内容にしていくことこそ、嘆く前に必要だと思っています。
とはいえ、何はなくとも仲間があればこそできること頑張レることがありますので、最初の一人が現れるのを心待ちにしております。

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