« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

2013.04.27

PTA会長としての恩返し

授業公開の後PTA総会が開かれ、不肖私が伝統ある弘前中央高校の今年度PTA会長を務めることになりました。
1年前に学年委員長を引き受けていますので、既定路線だったのは事実ですが、はじまる前にiPhoneを操作しようとしても反応しないほど、緊張が指先にまで出ていました。
就任にあたってのあいさつで、「2年前の入学式の際は牙をむいたのが、その牙を抜かれるほど大きく受けとめていただいてきた分、恩返しとしてあるかないかわからない爪を見せられるよう能力のすべてを傾けたい」と述べましたが、ここに至る経緯とあいさつの真意、そして会長としてやろうとしていることをお伝えします。

旧相馬村の中では、心ある先輩方の公職にある者が役を重ねるのはよくないとの配慮でPTAでの役職につくことはなかったのですが、2年前の入学式後の役員選出で数少ない男性ということと決まらないうち解散できないという状況を早く脱出したいということで役を引き受けることになりました。
その後、HRごとに選ばれた役員が集まって、その場で学年委員長を決めるという流れに、お互い知らない同士で選出などあり得ないと文句をつけましたが、引き受けてくださる篤い方があってその場は収まりましたが、その日の深夜に大震災後の最大の余震で翌日が終日停電だったにもかかわらず、「連絡がなければ登校する」という「校風」に沿った無連絡に入学二日目に振り回されることになり、1週間後の全体役員会ではこの二点でさっそく噛みつきました。
これを、当時の小寺正剛校長先生が真正面から受けとめてくださり、緊急連絡に関してはその年末にシステムを導入し、役員選出に関しても式後はHRでの選出までとする余裕を持った流れに移行させてくださいました。
小寺先生は高校の大先輩でもありますが、そのことでの近しさと懐の深さをもって接してくださり、そのことでこちらも前向きにかかわるように態度を改めることができたと、3月いっぱいでご退職となった際にも感謝でいっぱいのお別れをさせていただくほどのご縁が何より大きかったと思っています。

一方、PTAの役員には城東学園時代からのご縁のある斎川さんが会長として待ちかまえていて、さっそく研修委員会の副委員長に任じられたばかりか、1年経ったところで学年委員長が大変そうなので交替すべきだとはからってくれ、それが今日の会長就任へとつながっています。また、次の会長である飯塚さんが気さくに接してくださる方だったのも、PTA活動に楽しさを感じる大きな要因でしたので、前任お二人には頭が上がらない思いです。
ただ、それだけではこの大任を引き受けるわけにもいかないのですが、娘同士がスキーで競った縁のある斉藤さん、その斉藤さんと中学校PTAから一緒してきた花田さんと、同じ姿勢で活動に参加してくださる仲間ができたことで、こういうメンバーがいれば大丈夫と思って臨むことができましたので、これまでのご縁とこの2年間で得たご縁があってこその会長就任だと感謝しております。

このような流れで牙は光らす必要がなくなりましたが、光らせるべきはPTAそのもの、ひいては中央高校でなければなりませんので、そのために能はなくとも爪を隠さずに会長としてできる限りのことをしたいと思っています。
これまでの活動を充実させていくのはもちろんのことですが、斉藤さん花田さんからはさっそく親睦のボウリング大会という提案が出されたように新規事業を検討していくことも必要です。
こうした会を取りまとめる立場だけではなく、2年前の非礼をわび2年間の恩返しをするために、会長個人としてはネットでの情報発信を行って、現在の在校生・教職員・保護者ばかりでなく、同窓生や中央高校を応援してくださる方々に2013年の学校の様子をリアルタイムに伝えていきたいと思っています。
Facebookページでも発信していきますが、アカウントのない方がモバイルで見られないという現状をふまえて、無料サイトを使って発信することにしましたので、かかわりのある方そして関心のある方にはこちらの「弘前中央高校通信」をご覧いただきたいと思います。

それでは、この一年の活動を、皆さんご理解ご支援くださいますよう、よろしくお願いいたします。

2013.04.23

市政改革と町会改革の協働を

本日朝イチで道路維持課に3つの用件があり、足を運びました。
一つは、一昨日の日曜日に町会で行った一斉清掃に対する報償金申請で、昨年同様の様式を埋めて申請するだけで、1回につき12,000円が後日振り込まれます。
もう一つは、融雪溝の電気料金補助に関して、先日予算オーバーの変更申請したのに何の連絡もないことをただすことで、課長補佐とのやりとりが終わって一旦車に乗ったところで電話があり、担当が平謝りで作ってあった請求書を持ってきたので、押印して一件落着となりました。

この二つは毎年行われるものですが、そのたびに要綱や様式が郵送されてきており、一斉清掃に関しては全町会が対象となるものだけに、その段取りだけでも一仕事ですし、融雪溝の方は町会が作成すべき書類を職員が肩代わりしているのが常態であるのが見え透いています。
こればかりでなく、町会の世帯数や班数を報告する手続きも毎年あるのですが、これは昨年様式をファイルで送ってほしいと要望したのを受けて、今年は最初からネットでのやりとりも可能であることをうたってくれるようになったように、経費節減や処理の省力化のためにも要綱・様式はネットからダウンロードを基本とし、郵送や書類作成代行を必要とする町会からは手数料を徴収すべきだと思っています。
この考えには、1%システムでも申請に手間がかかり簡略化している実情やネットとは無縁のご老体が町会長としてデンと構えているので無理という反論があるでしょうが、そこに費用が発生するのであれば町会の若い者に事務だけでも任せようという変化を生むことにもなるでしょうし、そのくらいの荒療治をしないと町会自治の再活性化もないと思います。

そして、今冬の豪雪にまったく対応できていなかったJV業者による除雪を、村の他地区とあわせて直営除雪隊が対応するエリアとすることを骨子とした要望書に、ほとんどの世帯の署名を付して提出しました。
これは、昨冬の状況をふまえて昨年度の町会長就任時にも要望したことで、その際にも契約が2013年度まであるので見直しはその時点でと申し渡されてはいるのですが、町会長からの要望だけでなく町会の総意を示しての前倒しの要求ですので、市長の英断があることを期待しています。
これも、次期の契約見直しの際にプロポーザルや総合評価方式を取り入れて、その選定にエリアの町会も加わるようにすれば、市が決めたことに不満をぶつけるというのから自分たちも責任を持つことでかかわり方が変わると思いますので、一町会のクレームとしてではなく市政改革の一端として考えていただきたいと思っています。

町会と市政の協働のあり方を変えることが新たな改革のチャンスになる、これが町会長を務めて気づいたことですので、今後もドンドン提言していきたいと思いますし、それを推し進めるために町会連合会には切りこまないといけないと思っています。

2013.04.15

仮設住宅に救いを求めて

前回の投稿で記したとおりの思いを何とかするために、いくつかの用件もあったので野田村へと向かいました。

お昼を済ませてから、私が唯一リアルに知っているご遺族の暮らす仮設住宅に足を運びました。
大震災前は4世代で暮らしていたのですが、被災したことでひいお祖母さんがお亡くなりになり、娘さん世帯は別の仮設にいるので、訪ねた先には何度も弘前への招待で顔なじみになっているご夫婦が暮らしています。
ご夫婦はお孫さんへの手みやげのお菓子を喜んでくださり、3.11の際に自宅があったところに白菊の花束をたむけたのに感謝してくださってから、私の訪問の意図を汲み取って約1時間被災した時の状況や野田村でも設置された死体安置所での再会の様子、また現在の生活や今後の見通しの不安などを包み隠さず淡々とお話しくださいました。
話していただけるほどのご縁をいただいたこと、支援する側の人間がいたたまれない気持ちで救いを求めてきたのを温かく受けとめてくださったこと、さらにはご遺影を見せてほしいと何の気なしにお願いしましたら「写真の整理もできないでいる」という傷にふれることまでしでかしてしまったのにもかかわず、「また遊びに来てください」と見送ってくださったこと、本当に感謝以外の何物でもありません。

戻ろうとしたところで、これまたなじみの方とお会いすると、「車がいたから、どこに行ってかと思ってたよ」と声をかけてくださったり、笑顔で手を振ってくださる方もいて、この温かい人たち心も自然も豊かな野田村に私こそ助けていただいているのだと、つくづく思いました。
その感謝を形にして、これからも通い続けたいと思います。

2013.04.13

「遺体」に思い知らされたこと

なかなか良質な映画が上映されないワーナーマイカルで、今日から東日本大震災発災から10日間の遺体安置所をを描いた「遺体」がはじまるというのを妻が目にとめて教えてくれたので、久しぶりに二人でレイトショーに出かけました。
西田敏行さんのインタビュー記事で内容は把握していたのですが、最初数分間の震災前の日常からテロップでの暗転から約2時間、ずっと嗚咽が止めることができませんでしたし、その後帰宅するまでも言葉を発することさえできませんでした。

そこまで衝撃を受けた最大の理由は、大震災における死から私自身は安全地帯でのうのうと過ごしてきたことを思い知らされたからです。
くしくも、先日のツアーに参加してくださった野田村の方々が、「同じ被災者でも、津波を見たのと見ないのでは心の傷の深さが違う」と教えてくださっていたのですが、「遺体」で見たものは被災地にいたかいなかったのかでもまったく次元が違うことを、今さらながら気づかせてくれました。
さらに、「遺体」の描いた最後の日である3/21は「動こう津軽!」が結成された日なのですが、その10日間でTwitterで情報発信したとか市にTwitterアカウントを作らせたとか弘前市民の中では目立つ動きをしたことも、市議として定例会出席が義務であったことも、あの場に向き合うことをしなかったことの言い訳にはならず、この2年間震災支援に取り組んできたからといって免罪符にもならないという思いで、帰りの車中でも悔しくてなりませんでした。

野田村に最初に入った時には、すでに安否がすべて判明していたことも死と向き合わずに済んできた大きな要因ですが、その後のご縁の中で唯一リアルに知っている方がいます。
一両日中にご遺族に会って供養させていただくところからでないと、私はリスタートしてはならないと思っています。

« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

最近のトラックバック

Twitter

ブクログ

Amazon


  • サーチ:
    キーワード:
    Amazon.co.jp のロゴ

国際漫画展

無料ブログはココログ