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2013.03.31

「津軽衆の日」がつないだもの

あの3.11から20日となる2011.03.31に、津軽からの官民あげての最初の大規模部隊「津軽衆有志野田村支援隊」が、それまでほとんど縁のなかった野田村へ大型バスを先頭に入りました。
私にとっても最初の野田村行きでしたが、まさか110回を超えるまで往復することになるとは思わず、何ができるでもなく呆然としていたのを思い出します。
これが津軽弘前にとって震災支援の第一歩を刻んだ記念の日であり、野田村との絆そして今後とも交流を続けていく約束の日として、これまで一芸を持って野田村を訪問してくださった方々を一堂に会するイベント「津軽衆の日」を開催しました。

小田村長のごあいさつに葛西市長からのメッセージで開会し、追悼の思いを乗せた佐藤ぶん太、「祈り」の独奏からはじまって、五代獅子舞保存会・寺田北城さんの指笛から渋谷和生さんと和三弦会が前半のメイン、鈴木秀次さんのパフォーマンスが進む中で横笛ギネス実行委員会の囃子・佐藤ツリばっちゃと津軽昔コ村の皆さんで昔話・古川里美さんのマンドリンに、葛西悟・愛子さん夫妻には野田村の合唱サークル「コールわさらび」との共演で、最後は全員が舞台に上がっての「ふるさと」がフィナーレでした。
そこで私がお礼のあいさつをして、エピローグとして佐藤ぶん太、に再び「希望の粒」を吹いてもらう段取りでしたが、さすがに高揚しすぎて一度は忘れて降壇しそうになる失態を、2年前の奇跡同様の見事な笛の音で感動のエンディングにしてもらったので、集まってくださった野田村の方々からの温かいお礼とあわせて、涙なしにはいられませんでした。

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これで2年の節目を自画自賛ながら見事に無事に終えることができて、補助椅子まで満席の大型バスで帰途についたのですが、途中からアコーディオンの斎藤さんの勢いにつられて、ぶん太、の笛に本番では演じなかったツリばっちゃの昔コ、北城さんの指笛に新高校1年生の山口百恵メドレーまで飛び出して、失礼ながら本番以上の盛り上がりで、バスはひっくり返りそうなにぎやかさでした。

この時に思ったのは、野田村の皆さんのための「津軽衆の日」でしたが、同じ目的のために集まったさまざまな津軽の人間がつながるための場であったということでした。
野田村のため、そして津軽のための活動を、これからも続けていきたいと思います。

2013.03.23

本当に思いを受けとめるために

ずいぶん日数がたってしまいましたが、これからの震災支援にあたり忘れてはいけないこと、そして皆さんにも考えていただきたいことがありましたので、記しておきます。

野田村で「動こう津軽!」生活支援プロジェクトに一番参加してくださってきた5名の方を案内して、自己負担していただいての「早春の津軽ツアー」を挙行しました。
これは、10月に珈琲茶会を開催していただいた成田専蔵先生から、「3/24に「弘前でコーヒーを楽しむ会」を開催するので、その中の「コーヒーでできる被災地応援」というシンポジウムでスピーカーを務めてほしい、できれば被災者の方にも参加してほしい」という申し出をいただいたので、それにあわせて皆さんが1年間制作してきたステンドグラス作品の展示も行うことにして、せっかくの機会に野田村を訪問してくださった各店で食事をして回ろうという、大がかりなツアーになったのです。
弘前市に到着して、まずはステンドグラス教室のお手伝いにも来てくださった長内郁子さんの「カフェ・ド・クー」でランチ、その後成田専蔵珈琲店で野田村の皆さんにはおなじみになったコーヒーを店で味わっていただき、今回の中では唯一の活動となる漆塗りの絵付け体験をCASAICOでさせていただきました。

宿であるロマントピアにチェックインしてから、11月に津軽量遺産教室でお世話になった菊富士さんでの「野田村と津軽の交流会」での食事会で楽しく歓談となりましたが、そこで野田村の皆さんは自己紹介の域を超えた被災後の状況を詳しく語ってくださいました。
大震災直後と言っていい時期の弘前ねぷた招待にあわせて、交流会と称して被災時の状況を語ってもらう場に私も参加しましたが、まだ心の整理がつかない時期だったせいか自分の思い込みを真実のように語った方や家族の中でも受けとめ方が違うのをさらしたような気まずい形になったケースもあり、私自身は進んで「あの時のこと」を聞きだそうとはしてきませんでした。
それが、この前兆のように今年度最後のヨーガ教室ということでお昼を一緒した際にも話してくださっていたのですが、これが2年間のご縁で支援する側/される側という壁が取っ払われたことで、本当に心の奥底にしまっておいたものを出してくださったのだと、ありがたい思いでいっぱいになりましたし、野田村を訪問し会に集まってくれた津軽の仲間のおかげと感謝しています。

それでも、それを語れるだけの関係が築けるほど前向きになっている方はまだしも、かかわればかかわるほど一向に顔も合わせることもなく仮設にこもっているような方々がたくさんいることが気になりますし、待っていれば心を開くわけではないだけに、違うアプローチをしなければなりません。
ちょうど同時期に長らくソーシャルワーカーとして働いて来た方とお会いする機会があり、定年して時間があるなら月に1回同行してもらえないかとお願いしておきましたが、大震災から時間がたつにつれて心の傷は癒されるより深まっている方が多いと感じるだけに、今こそ福祉の専門性をプロボノで生かすべきだと思います。

失礼を承知で、これに発奮して立ち上がる者があるのに一縷の望みを託して厳しく呼びかけます。
「今まで一番役に立っていない福祉の人間よ、本当にボランタリーな気持ちがあるなら、出てこいや!」

2013.03.21

成果につながる議会改革とは

弘前市議会の第1回定例会は本日で閉会し、市長提案の全議案が可決承認されたばかりでなく、議員報酬の5%削減の議員提案も一心会・共産党の2会派以外の賛成多数で可決となりました。
昨年9月の唐突な議員定数6減に続き、今回から一般質問で一問一答式の導入と、弘前市議会の改革は着実に進んでいるかに見えますが、今会期中5日の傍聴から感じたのはまったく逆のものでした。

まず大項目ごとに何回も質問を重ねられる一問一答式ですが、ある項目で追及することに意識が集中してしまって、質問から新たな政策提言を行ったり市長の政治判断を引き出すといった論戦の意義を見失い、それで時間配分をミスして他の質問がおろそかになっているパターンが何度も見受けられました。
一項目で質疑を繰り返すことで、聞く側にも理解しやすくなるメリットはあるのですが、それであれば予算審議の際にも款で複数の質問をする場合には適用させるべきだと思いますし、傍聴した中で白眉の質問をしたのが従来型の再質問で教育委員会に予算執行権をと切りこんだ小山内司さんだっただけに、形式でなく質問の視点がやはり重要だと認識させられました。
振り返ってみますと、相馬村時代には一問一答式ではありましたが、その項目では再々質問までという制限があり、なおかつ最初の答弁は課長が受けて政治的判断が必要なレベルに至らない限り村長の発言を引き出せないといった慣習で、自分の質問の出来不出来をその場で村長に評価されるようなプレッシャーがあっただけに、上滑りしている感じを受けてしまいます。

そして今日は報酬削減となりましたが、反対討論に立った佐藤哲さんは①報酬審議会の答申でなく議員提案で行った例はなかった②5%という数字が今後の審議会に影響を与えかねない③5%では財政効果は見込めない④市民感情は5%では納得しない、と論じていまして、私も削減すれば市民からの批判を受け流せるというお手盛りな発想ではいけないと思いますし、自らの存在価値を報酬審議会に委ねないというのは15%を拒否した青森市議会と同じであってはならないことだと思うだけに、少数ながらも批判を受ける覚悟で正論を貫いたことに拍手を送りたい気持ちです。
そもそも5%削減を自らいうのであれば、これからの2年間だけでなく過去の2年間も相応分の仕事であったと認めたようなものですから、共産党の反対討論での現行額での新年度予算を可決しながら直後に削減を提案するのがおかしいということよりも、過去に遡って返納するという今年度予算の修正案を附帯していないことこそ批判されるべきです。

もう一つダメ出しすれば、最後に議会だより編集特別委員会が設置されることになりましたが、市では広報広聴課だったのを今年度すでに広聴広報課と順番を入れ替えて市民の声を聴くのが先で発信は後という姿勢を示しているのと比べると、広報活動全般でなく議会だよりという一ツールに矮小化された委員会設置では周回遅れの感をぬぐえません。

落ちた腹いせに批判ばかりかとお叱りを受けそうですが、落選したからこそ気づくことがあるのは真実で、これらの取り組みや付け焼き刃の議会基本条例制定などでは市政の中で議会が役に立つ存在になることにつながらないというのを喝破できます。
本当の改革というのは、決算時にすべての事務事業を成果=アウトカムの視点で仕分けしたり、予算策定を見える化するなどして、不要な事業を削ったり市民生活の向上につながる事業をすくい上げたりするPDCAサイクルに議会を明確に位置づけるシステム変更だと思います。
それが今の弘前市では、事務事業評価を廃止してアクションプランは自己評価と市民による第三者評価という方向に進んでいて、この件を一般質問でせっかく取り上げた菊池勲市議も議会が評価から外されていることに異を唱えずに終わりましたので、ガッカリしたというのが正直なところです。

一方で、今回傍聴に来ていた私より若い世代と話してみると、どの質問がよかったのか議会改革とはどうあるべきかといった上記の視点には自分との受け止め方の違いで関心を持ってくれましたし、見方を変えてまた来たいという気持ちを持ってくれたので、こういう語らいの機会は大事だと実感しました。
それによって、市民の側に改革すべきは何なのかという理解が拡がることこそ真の議会改革への早道と信じて、今私ができることすべきことをしていきたいと思います。

2013.03.17

町会長1年を評価する

町会長となって早いもので1年となり、その立場で臨む初めての町会定時総会を無事に終えました。
1年を振り返ってみると、想像以上に庶務や手続き、さらには支所や各担当課と打ち合わせしながら進めなければならない業務が多く、素浪人だから対応できたものの現役世代では難しいだろうと痛感しました。

それでも、就任にあたってマニフェストを掲げただけに自己評価してみますと、①昴まつりへの70世帯180人参加は68世帯184人参加、②地区体育祭全種目参加は1種目を除いて参加でしたのでほぼ達成といえますが、③総会70世帯出席は60にとどまり、④全世帯が年1回は行事活動に参加に関しては15世帯が一度も参加していないという状況でしたので、未達といわざるを得ない結果でした。
結果としての評価ばかりでなく、①〜③に関しては町会だより「プレアデス通信」での告知や担当役員からの声がけなども行ってのものですが、④は何ら働きかけもしないままに結果を集計して愕然とするというノーアクションだったことからして猛省が必要です。
これを受けて、新年度は不参加世帯を99世帯のうち10未満にすることを目標とし、まずは今年度の不参加世帯に4月の一斉清掃への参加を働きかけ、春夏の活動に不参加の世帯には雪囲いの前に改めて声がけするという具体的なアクションもあわせて明示しました。
このPDCAサイクルを回していくことこそマニフェストの真髄ですし、規模の大小や組織の位置づけにかかわらず活動する組織であるならば、こうしたマネジメントは必須の取り組みだと思います。

それにしても、行事活動に参加しない、町会の役回りを引き受けないといった会員としての義務を放棄する人が増えてきているのは厳然とした現実ですし、これだけの取り組みをしても達成できない場合には相馬地区の他町会では当然のように行われているペナルティ課徴金を検討せざるを得ないと考えていること、そうならないためにも我がこととして声がけに協力してほしいと、少々長い熱弁になってしまいました。
それに気圧されて皆さん引いてくださったおかげで、この件で喧々諤々と議論にならずに交流会に移ることができましたが、それだけに宣言したアクションを実行に移していかなければと思っています。

その交流会で、「よくやっている」とか「がんばって」と励ましの言葉をいただくと、酔いも手伝ってついついそれが一番の評価と思ってしまいたくなるだけに、気を引き締めて2年目に臨むつもりです。

2013.03.11

大震災に真に向き合う

あの日から、2年になりました。
昨年は野田村での追悼式典に出席することで一番大事な人たちと思いを一つにすることに意を尽くしましたが、今年はあえて式典にあわせて訪問することはせず、致遠小学校で行われた防災訓練を見学させていただいてから向かいました。

致遠小学校は480人弱の児童が在籍する市内最大の小学校ですが、この日を「防災の日」と定めて避難訓練ばかりでなく市が全小中学校に導入した緊急メールシステムを活用して保護者への引き渡しまで行うという記事があったので、3.11の際に教育委員会指導課長であった工藤浩一校長先生に見学を打診したところ快諾してくださいました。
工藤先生には、課長時代から子どものためには大胆な手を打たれる決断力と情熱に感銘を受けたものですが、卒業式直前の一番忙しい時期に最先端の訓練に取り組まれる姿勢こそ、弘前市が大震災から学び忘れないのを最高の形にしたものと思いましたし、それを見届けて野田村に届けることこそ自分の役割と思ったわけです。
実際の訓練の様子は地元紙既報のとおりで、子どもたちは非常にキビキビと真剣に動いていて感心しただけでなく、ちょうどステイサポートでご縁のあった家族が終業式をもって原住地に還ることも教えていただいただけに、全員集合しての黙祷の際には感情の入りまじった涙がこぼれました。

訓練を見届けて、「だらすこ工房」のお父さん方へのお礼の地酒を買い込みに道の駅に寄ったところで発災の時刻となったので改めて黙祷し、夕方の野田村に到着しました。
昨年は当日と同じように吹雪でしたので真っ暗闇の中で渋谷和生さんの追悼演奏を聴きましたが、今年は穏やかに日暮れていく海を見ることができました。
村の中心部にある愛宕神社の参道には追悼のキャンドルが灯され、私は村内で殉難者37人分の白菊の花束を、市への招待で何度もご縁のあるご家族のひいばあさんがお亡くなりになった場所にたむけてきました。

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野田村には、すでに120回近く往復してきましたが、支援交流を重ねることだけが大震災に向き合うことではなく、身近な場で我がこととして震災から学んだものを生かすことこそ大事だと感じた、2回目の3.11でした。

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