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2012.03.29

泣き笑いの「津軽衆の日」

土岐司先生が野田村にはじめて入ったのが25日、それが「津軽衆有志野田村支援隊」のスタートとなり、市が支援する形で最初の大型バスが向かったのが31日でしたので、津軽からの支援も1周年となります。
私も31日にはじめて野田村に入り、それがここまで続く支援の第一歩になりましたのが、一緒に行った横笛奏者・佐藤ぶん太、の笛の音につられて子どもたちが集まってきた光景はいまだに忘れられません。 < /p>

それを記念して、ぶん太、と「津軽の文化教室」で一番好評だった津軽昔コ村の皆さんによる昔話、加えて昔懐かしいポン菓子の古川昭さんにも一緒してもらって、「津軽衆に日」としてイベントを開催しました。

午前中は野田中仮設住宅集会所、午後は野田村総合センターで、当日打ち合わせたとは思えない当意即妙の進行をぶん太、が仕切ってくれ、4人の語り部の皆さんもそれぞれ持ち味を出した語り口で笑わせてくれました。
そして、佐藤ぶん太、は津軽の囃子ばかりでなく自分のオリジナル曲から昨年子どもたちが集まってきた思い出の曲「希望の粒」、さらに午後の最後には私からのリクエストで津軽藩士殉難の歴史にインスパイアされて作った「祈り」を追悼の思いをこめて吹いてくれました。
この曲でいつも泣いてしまうのですが、3.11の追悼演奏でもやってほしかったのがかなわなかったことも思い出し、野田村との1年のかかわりで自分が救われていることに感極まってしまい、ステージのぶん太、が鼻水をすする音が気になってしまうほど泣き尽くしてしまいました。

野田村の皆さんの中にも涙するする姿があり、帰り際にもたくさんのお礼の言葉をいただきましたが、これからが本当の意味でのかかわりを持てるかどうかの試金石だと思います。
ちょうど28日に中央共同募金会の第6次助成で4月からの活動に満額回答での助成採択の速報がありましたので、新たな気持ちで「遠い隣村」に通い続けたいと思います。

2012.03.20

動こう津軽!、2年目に向けた課題

「震災支援に津軽の衆知を」を掲げて、昨年3/21に発足した「動こう津軽!」は、ちょうど1年となる春分の日を期して報告会を開催しました。

大震災発生からわずか10日、ねっtでの呼びかけからはたった3日くらいの期間しかない中でも30人近いメンバーが集まり、民間からの支援と中長期的な集団避難受け入れという意見集約をみて動き出した熱い議論の様子は今でも確認できますが、やはり1年を過ぎて関心が薄れたり当日の他の予定と重なって参加できなかったりで、両手で足りるほどの人数だったのは残念でしたが、それでもはじめて参加してくれた方やチームオール弘前への案内で飯孝行先生と学生1人も参加してくれたので、ついつい私もプレゼンに力が入り、さらに濃い内容での意見交換となったので、正午を過ぎて30分オーバーでの閉会となるほどだったので、開催したかいはあったと思います。

その報告内容は、こちらのリンクからご覧いただきたいと思いますが、2年目に向けて取り組むこととしては、野田村生活支援プロジェクトの継続と発展的拡大、ステイサポートでは青森市「つながろう会」との連携強化さらには全県下での交流、新たな取り組みとして南相馬こどものつばさの今夏受け入れをめざしていくということについては賛同していただきました。
ただ、それを展開していくにあたっての課題としては、何といっても活動するメンバーの確保、活動していく上で助成金頼みしかできない財政事情があるだけに、避難移住者の方や学生が自らの仕事として考えられるような体制を作るためにもNPO化をめざしていく必要があることを提起したところ、こちらも了解をいただきましたので、新年度にさっそく準備を進めていきたいと思っています。
一方参加者からは、活動の区切りを明確にしていくべき、避難ではなく移住となっている人には市民としてのかかわりができるようなやり方を工夫しては、弘大以外の学生にも豊穣提供して参加者を増やす、6月の映画上映と「復興の狼煙」ポスター展を併催しては、といった具体的で建設的な意見がいくつも出されましたので、可能な限り受けとめて組みこんでいきたいと思います。

代表である山内正三先生は南三陸町の出身だけに、今年が復興元年まだまだ先の長い取り組みだけに支援も5年をめどに中期的な計画を考える必要があるとお話しになっていましたが、そこまでしっかりと活動できるよう、さらには防災のまちづくりにかかわるような長期的な展望を持って進んでいきたいと思いますので、これからも皆さんのご支援ご協力をお願いいたします。

2012.03.18

町会長、だからこそマニフェスト

6年前から住んでいる我がまち昴の町会長となりました。
実際には8班からそれぞれ選出された新理事による準備理事会が先月開かれ、そこで選任理事そして町会長として真っ先に私の名前が挙げられたのを受けて桜庭町会長が電話で集会所に来てくれという流れになり、さすがに断るわけにはいかない雰囲気を察して受諾の返事をしたところからはじまっていますので唐突なことではなかったのですが、さすがに総会で承認の拍手をいただくと改めて身が引き締まる思いでした。

新会長としてのあいさつでは、大きく二つの思いをお礼をこめて述べました。
一つは、新理事の方々に推していただいて町会長の任を与えていただいたことへの感謝です。
あいさつの際には「はじめて」と言いましたが、よく考えると先に高校同期会「八三会」の会長に推されていますので初めてではなかったのですが、何をするにも自分の意志で立つことをし続けてきた者、それも市議選では落選の烙印を押された者を一番身近にいる方々が推してくださるなんて、本当にうれしい以外の何物でもありません。
この1年間、素浪人として震災支援を中心に動いてきましたが、市政や相馬地区のことには関心を持ち続けて市議会の傍聴にも可能な限り足を運んでいますが、それに参画することができない立場に切歯扼腕の思いをすることもしばしばあったので、町会連合会を通じてかかわる立場になるわけですし、町会の方々もそれに期待しての推挙だと受けとめて仕事をさせていただくつもりです。

もう一つは、町会長として町会を運営していくにあたってマニフェストを掲げることです。
もちろん、町会は理事会での協議によって運営されていきますので、来月の理事会に私案を諮って承認を得るという手順が必要になりますが、それまでに案を練るつもりです。
昴町会は新しいまちづくりを進めていくためにワークショップを重ねるところからはじまったところだけに、事業計画や予算案をまとめるにも何度も話し合う極めて民主的な町会自治をしているのですが、計画そのものはいつ何をやるという予定表を作成しているだけです。
その、まちをつくるという意識が徐々に薄れたり住む人が入れ替わることで伝わらなくなっているために、行事などへの参加率が下がってきている現実があるだけに、それにどういう対策を打ちどれだけの参加者をめざすのか、それによって町会の雰囲気をどう活性化させるつもりか、しっかりと掲げて町会の皆さん特に理事の方々と目標を共有して取り組んでいきたいと思うのです。

総会後の交流会では、そういう難しいことは言わずにがんばってという声もかけていただきましたが、せっかくいただいた大事な役割を自分なりに全うするために、今まで学んできた手法をいかして取り組んでいくつもりです。

2012.03.11

小田村長の涙、自分の涙

金曜日はヨーガ教室、土曜日はグラスハープに「ささやきの壁」での新しい音の試みで通っていましたので、3日連続で追悼式典への参列、年末から取り組んでいただいた「絆のキルト」の贈呈、そして渋谷和生さんによる津軽三味線の追悼演奏をセッティングした立場で、あの東日本大震災から1年の3.11を野田村で過ごしました。

粛々と執り行われた追悼式典では村内で28人の方がお亡くなりになった現実の重さを感じ、終わりしだい役場応接室での『風舞う里』と題された「絆のキルト」贈呈に移りましたが、取りくんでくださった主力の村民の方々も10人立ち会ってくれ、スポンサーとなってくれたロータリークラブ、指導と仕上げをしてくれた古川範子先生からのスピーチから記念写真と進み、最後に小田佑士村長がお礼のあいさつをされました。
金曜日には式典直前にもかかわらず「チームオール弘前報告会」でのあいさつに来弘し、式典でも厳粛に式辞を述べていた村長ですが、やっと重圧から逃れ村民の手による明るい色合いの作品に気持ちが緩んだのか、最後に涙をぬぐわれました。
昨年3.31に初めて来村してお会いした際の作業服姿、夏の復興イベントで村民と歓談する姿、12月に膝を交えて夜遅くまで語らう機会などなど、リーダーとしての責任感と温厚な人柄にふれてきた者としても感無量の場に立ち会えて、本当によかったです。

IMG_4339

それから、日も暮れて家の灯りも街灯もない道沿いに「夢灯り」のろうそくの火だけが照らされた漆黒の闇の中で、東京の歌い手・中村泰子さんの歌に続いて、当代一の津軽三味線奏者・渋谷和生さん一行による追悼演奏が、被災した中心街の診療所跡で行われました。
このセッティングを教育委員会から打診されて交渉した立場でしたが、和生さんは震災支援の思いと昭和大津波の際に野田村の方に手を引かれて門つけに来ていた若き高橋竹山が救われた故事を知る者として一つ返事で快諾してくれ、雪の舞う凍えた夕闇の中で回りにも心にも響き渡る演奏をしてくれました。
その前に前庭を駐車場に貸してくれ、私たちばかりか和生さん一行の控え室代わりにおじゃまさせていただいた桜庭さんから震災当日のことやお亡くなりになった近所の方の様子などを聞かせていただいたこともあり、あの日の暗闇の中で津波が来た時間来た場所で魂の三味線の音色を聴いているうちに、その御魂のおかげで今ここにいるのだという思いがこみ上げて、涙があふれました。

本日は1年ということで追悼が前面に出た1日でしたが、明日からはまさに復興への2年目に入ります。
これからも、私でできる限りのことを野田村にもステイの方々にもしていけたらと、決意を新たにしたところです。

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