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2011.12.25

長慶会へ、義のプレゼント

野田村とのご縁、さらには本当に私のことを見守って応援してくれる人は誰なのか見えてくるという大切ものを得た代わりに、地域のために福祉の仕事をするという立場も親不孝者というレッテルによって市議の地位まで失うことになったのは、言うまでもなく長慶会騒動によってです。
FacebookやTwitterでは断片的にふれてきましたが、このたび12/21付で労働審判の申し立てという司法の場での解決に踏み切りましたので、この一年間の経緯と私の思いを明らかにしておきます。

長慶会に対する県の指導により、3月に新しい理事・評議員が選任され、岩木地区の社協会長を務めている対馬伴成氏が理事長に就任しました。私にしても旧知の方であり、前理事長の旧友とはいえ理性的な判断ができる人物と信じて、陣容が固まったところで今回の騒動の最中に強行された私の職員としての解雇は無効であることなどを検討していただくことなどを申し入れしました。
落選直後の4月末に、対馬理事長と相馬地区から選任された三上鶴雄理事と三者会談を行いましたが、最初から労働審判や刑事告発をちらつかせた文書は脅迫そのもので全員憤慨していること、また内容そのものも新任の自分たちには過去の問題で判断のしようがないので司法の場に委ねるのならそれもけっこうという線を一歩も出ずに終わりました。
選任から半年となる9月ともなれば判断してくださるだろうと再度の申し入れをしたところ、評議員会で事情を聞くという返答があったものの、その1時間のやりとりでは独善的だとか親子喧嘩だろうとかいう表層的な批判は浴びせてくるものの法の下の正義に照らしてどうかという判断にもとづいたやりとりはまったく行われませんでした。
その後1ヶ月を過ぎても申し入れに対する回答がないため信頼する弁護士に同断して労働審判に踏み切ることにし、同時に長慶会に最終通告を突きつけたところ、自分たちでは判断つきかねることなので司法の場に委ねたいという回答が理事長直筆で返ってきたので、このたびの申し立てとなったわけです。
これによって争うのは、私の職員としての解雇が無効であることのみであり、それが3回の審理によってスピーディーに判断が行われることになり、当然私は勝って戻ることになる手はずです。

私としても、選任された対馬理事長以下の役員の方々に一片の恨み辛みがあるわけではありませんが、自らの責任において物事の善悪を判断しないという姿勢、さらには介護保険時代の経営者としてのマネジメントが求められる立場にありながら何の方針も示そうともしない方々には、この審判を機にご退場いただきたいと思っていますし、その程度の指導しかしない県にも責任を問うつもりです。
一方、役員が経営方針を示さないことや以前からのの対立に嫌気をさして離職する職員が後を絶たない現場の現実がある中、私が復職することになれば当時反旗を翻した面々にはいたたまれないことになるでしょうから、一時的に混乱が増すことは私としても覚悟しています。
しかし、長慶会そして長慶苑がやろうとしてきたのは単なる介護事業所ではなく、相馬地区の中で地域とともに利用者本位のサービスを行い、パイオニア精神を持ってプロ意識問題意識を持った職員を育成するという、困難でも崇高な大義を掲げて取り組む拠点を作ることにあるのですから、それがイヤだというならやめてもらってけっこうです。

他からどう見えるかはともかく、私にとって一番重要な義を貫くこと、その決着をつけるのが来年最初のミッションですので、そのもらう側にはうれしくない義のプレゼントを差し上げておきます。

2011.12.23

野田村からの贈りもの

「動こう津軽!」生活支援プロジェクトの一つ、「津軽の文化教室」ですが、今回はクリスマスシーズンということで、昨年のルネスアベニュー楽市楽座のスタート時のメンバーとして苦楽をともにしたステンドグラス工房「ビドリエラス」の嶋津幸さんにミニリースづくりを指導してもらうことにしました。

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嶋津さんと、弟子入りしている同じく楽市組「ぴーぷる」関口さんの息子さん、BUYのだむらプロジェクトにもかかわってもらっているANEKKOの村上さん、弘大生で実家が津波で流された村上さんに、支援隊の土岐司隊長、さらには朝日新聞の同行取材というバラエティに富んだ陣容で臨みましたが、それぞれの持ち味を生かした動きをしてくれたおかげで、野田村の皆さんも初めての取り組みにもかかわらず手早く作り上げることができ、お互いの作品を比べてはほめ合うという、ほほえましいやりとりが見られる温かい雰囲気での活動になりました。
当日は来年からの活動となるキルトのことも紹介したのですが、「そちらもぜひやりたいけれどステンドグラスもまたやりたい」、「三上さん、必ず嶋津さんをまた連れてきて」と、今までにないほどの反応で、この時期にこの企画をしてよかったと心から思いました。

この往復の道すがら、大人3人で震災支援のことや私の活動ぶりが話題になりましたが、その中でも言葉にしたのは、「無職」という私に野田村に通って活動するということがなかったとしたら、本当に自分はどうなっていただろうと思いますし、それを嶋津さんや村上さんは今これをしなさいという導きがあるからだと話してくれました。
今日はミニリースというプレゼントをしにいったことになっていますが、よくよく考えれば私こそ野田村の皆さんから生きていくための贈りものをいただいていると本当に思います。

2011.12.22

よきクレーマーとして

昨日まで5日連続で朝の雪かきをしていましたが、私ばかりでなくご近所からもネットでも除雪出動のちぐはぐさに不満が聞かれましたので、市のホームページの「お問い合わせ」から道路維持課に質問を寄せたところ、昨日のうちにしっかりと回答をいただいたばかりでなく、詳細な部分での説明をしたいとのことでしたので、今日は出動しない分ホッとした雰囲気の維持課におじゃましました。
ちなみに、私からの質問とそれに対する回答は下記のとおりです。
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この5日間の0:00時点での積雪と出動判断はどうであったか。

この5日間は、市が道路状況の調査や気象情報を基に出動を指示しております。例年、雪の降り始め期間(今年は11月9日から12月20日)は、出動のばらつきを防止するため市が出動を判断し各工区に指示しております。
17日 市内の道路状況を調査後、全工区に出動を指示
18日 前日の除雪実施による道路状況と気象情報により出動なし
19日 道路状況を調査後、郊外部の工区の出動を指示
20日 道路状況により山間部のみ出動を指示
21日 道路状況を調査後、全工区に出動を指示

明け方の急な降雪に対しては、何時までに出動するといった基準をもうけているか。

出動基準は設けておりませんが、早朝の降雪への対応は必要と考えております。このため、今冬は、道路状況に応じ、交通渋滞を引き起こしにくい路線については、日中除雪により対応したいと考えております。

昴地区は今日未明1時台の除雪であったが、こうした早い時間に除雪した地区で明け方まで降雪があれば再度の除雪をするのか。

各工区の除雪機械は、基本的に午前1時から午前6時までの5時間で作業を終了できる台数を配置していることから、現状では、再度の除雪は困難と思われます。

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これをベースに板垣課長・阿保課長補佐と1時間ほどやりとりさせていただきましたが、こういう情報を市民に理解してもらうためには、ネットでの情報が必要ではないかとたずねたところ、担当の職員から広報11/15号で除雪情報サイトやメール配信などの記事を載せたことを説明されましたが、これは2008年から行われたICTモデル事業を継続発展させたもので、質問しておいて追跡していなかった不明を恥じることになりましたので、この機会に市民の皆様にも登録活用していただきたいと、お知らせしておきます。
また排雪のことがネットで質問が上がっていましたので聞いてみたところ、除雪計画の中で大まかな基準を定めているものの、情報を出すことに関してはそれに便乗して屋根雪を道路に下ろしたりする方がいたことも少なくなかったので公開しなくなったという話になり、市民側のモラルを変えないと解決しない部分があることを感じました。
この他、私の住んでいる昴地区だけが相馬支所の直営エリアでないことも取り上げ、地域の一体性のためにエリア区分を来年度でも見直してほしいということも伝えておきました。

今回のやりとりは、終始なごやかな中でお互い前向きな懇談をすることができましたが、こうやって時間を割いていただけるのは前市議としてのキャリアがあればこそですし、その立場を失っても市民生活を向上させたいという思いは変わりませんので、これからもよきクレーマーとして向き合っていきたいと思います。

2011.12.20

明日また生きるぞ!

震災支援するにあたって、参加する側ではなく企画する側であること、そして今のところ他に収入を得る手だてがないこともあって、生活支援プロジェクトでは日本財団弘前ステイサポートでは共同募金会からの助成をいただいています。
その一方で、弘前市の仕事おこし・まちづくり1%システムに応募したものは不採択とされ、青森県が窓口となって実施する「新しい公共」モデル事業では第1次の際に申請取り下げをせざるを得なくなり、公的な助成には縁がないままでした。
その反省をふまえて、震災対応枠で募集があった第3次の「新しい公共」モデル事業には素案をまとめる役は果たしつつ、自分の影も見せない作戦で臨んだのですが、今回もまた6件中4位という評価で不採択となりました。

八甲田山にゆかりのある会場でのことでしたので、映画の「天は我を見放した」という名台詞を思い出しましたが、今回の申請にあたっては前面に立って申請までこぎつけてくれた二人の人物がいて、一年最後に振り返ってみても一番お世話になり一番信頼してきたのを象徴する時間を持つことができたのですから、これで諦めるわけにはいきません。
今回の内容のうち、野田村の主要人物を弘前市に招いて学ぶ場をもうけるとともに現場を離れて休息する機会を作ることについては、改めて民間助成を受けるためにリスタートさせていきたいと思っていますし、二人に対しても自分でできる恩返しやいっそうの連携をしていくつもりです。

苦しい環境は続きますが、それでも.こんな時だからこそ弘前市出身のレスラー船木誠勝が輝いていた時期に負けて放った「明日また生きるぞ!」の叫びを胸に、明日からまた次を創る歩みをはじめたいと思います。

2011.12.11

国際漫画展の線を伸ばしたい

6月に開催した大震災国際漫画展を、再び玉雲堂ギャラリーで開催することができました。
観覧された人数は前回ほど多くはありませんでしたが、最終日の山井教雄さんのギャラリートークには10人近い方が熱心に聴き入ってくださり、活発なやりとりができましたので、何よりでした。

IMG_3853

今回は、世界からの一コマ漫画ばかりでなく、山井さんがこれまで描いてきた作品やアニメーションの展示、さらには日本では表現の自由がどれだけ制限されているかをまとめた原稿の一部も掲出したのですが、なぜこれがボツになるのか理解できないレベルの自主規制がマスコミ内部で行われているのを、山井さんはトークでも飄々とした語り口ながら力説されていました。
これが今回の大震災、特に原発事故に関しても行われていることを烏賀陽弘道・上杉隆両氏の対談で知ることができますが、山井さんとは相通じるものですので、Facebookでご縁をいただいている烏賀陽さんと山井さんの対談を組み合わせて漫画展を三たび開催したいものと考えています。
そのためにも、漫画展を点で終わらせず、線につないでいくことが必要になりますので、関心をお持ちの方にはご一報いただきたいと思いますし、私もそれだけの覚悟を持ってこの漫画展を続けていきたいと思っています。

2011.12.09

ボランタリーにBUYのだむらプロジェクト

「動こう津軽!」では、BUYのだむらプロジェクトを始動させました。
概要はリンク先で詳しくふれていますので省きますが、こちらではこのプロジェクトへの思いを記しておきたいと思います。

「動こう津軽!」の活動は、野田村での生活支援プロジェクトは日本財団、これから動き出す弘前市内への避難・移住者への支援となる弘前ステイサポートは共同募金会と、助成を受けて動いています。
ボランティアとして参加するのではなく企画運営する立場ですし、実際のところ野田村と往復するだけでも1万円近い交通費が発生するのですから、無償では取り組めるものではありませんし、「無職」という立場ではできない活動ですので、胸を張って助成をいただいて、その分しっかりと活動すればよいと思っています。
ただ、やれることのすべてを助成してもらうのでは最初のボランタリーな思いが失われてしまいますので、無理のないレベルで無償でできる活動はないものかと考え、野田村からの帰りに産品を受け取って市内で取り扱ってくれるところに届けるということを思いつき実行に移したわけです。
また、当初の支援から交流のレベルに進んできた野田村とのかかわりを、経済のレベルに広げていく第一歩にもなるはずです。

一方、生活支援プロジェクトでさまざまなメニューを組み合わせ、多くの方々に参画していただいているのは、一人でも多くの人に野田村を訪問してもらい、人々の優しさ自然の豊かさにふれてもらってファンになってほしいという思いがあるからですが、現実には「チームオール弘前」の活動も回数が減ってきていて単純な作業ボランティアではかかわれない形になってきていますし、それにも無縁な市民が圧倒的多数では野田村そのものを知らない方が普通です。
そこで発想を転換して、野田村に行かなくても市内で目に止まる環境を作ることも知ってもらうきっかけになるというのが、このプロジェクトのもう一つの意義です。

3.11大震災から9ヶ月、年末の重大ニュースや薄れゆく記憶の彼方にしか残っていない方も多いと思いますが、一番復興が進んでいる野田村でもまだまだやらなければならないことが山積していますし、弘前津軽からの支援もさらに展開していく必要があります。
それも近いうちにお知らせできると思いますが、支援を先に進めるためにもボランタリーな初心を忘れないように、このプロジェクトに取り組んでいこうと思っています。

2011.12.06

今年の縁、30年目の縁

野田村で「遠野物語」などで知られる往年のフォークシンガーあんべ光俊さんと、「復興食堂」の活動に取り組んでいる松本哲也さんのライブがあるというので、支援ではなく交流のためだけに津軽衆有志野田村支援隊の隊長・土岐司先生と二人で午後から出かけました。

あんべさんのライブのことは、11/5に開催された交流登山の際に、山歩きの代表でありライブのきっかけを作った方でもある小野寺さんから聞いており、登山のとりまとめ役でもあった広域観光協会の貫牛さんとで実行委員会を組織したこともあって、私にも案内してくれたのです。
実は高校時代の友人があんべさんの大ファンだったこともあって私も何枚かLPを買って聴いていた方でしたので、30年目で生歌を聴く機会を逃すわけはなく、飛びついたのでした。
当日は100人ほどの村民の方々が集い、岩手の良心のようなあんべさん、細身のルックスかぁは思えrないほどの熱い歌声を聴かせた松本さん、それに女性デュオ・フレイヤと、岩手をベースに活動しているアーチストが震災復興の思いをこめてアットホームなステージでしたし、これだけでも来てよかったと思えるひとときを過ごし、その分撤収作業を手伝わせていただきました。

貫牛さんたち実行委員会のメンバーはあんべさんたちが久慈市に投宿するのに対応するというので、私は土岐先生が先に宴をはじめていた米田地区の前田やすさんのお宅にかけつけて、遅ればせの歓談に加わりました。
やすさんは、野田村と弘前市の食べニケーションの要になってきた方で、最初の桜まつり招待で豆腐田楽をふるまってくださったことでも知られていますが、私も何度もごちそうになってきただけに、だんなさんやその従弟のスペシャルゲストまで加わって、楽しく深い話が続いて夜がふけていきました。
朝3:00から豆腐の仕込みで起きたというやすさんに朝ご飯までお世話になって、これまた親戚だという「お魚センター」では鮭の半身までいただいて、どちらが支援を受けているのかわからないほど歓待を受けての帰路となりました。

大震災が起きて、土岐先生たちが3/25に真っ先に足を踏み入れて以来、野田村と弘前・津軽との支援交流がはじまり、私もそのご縁でこれほどのかかわりを持てるようになりましたし、それが高校以来のあんべさんを聴くことにまでつながるのですから、縁の大事さ不可思議さを思わずにはいられません。
今年はじまった野田村との縁が、いつかまた思いがけない縁を生んでいくのを楽しみに、これからもかかわっていこうと改めて思っています。

2011.12.03

若き同志へのエール

今日の地元紙で、二つの議会にかかわるニュースが報じられていました。
大きく取り上げられていたのは、2月まで市議会でずっと同じ会派を組んでいた斉藤爾県議の「脱原発」発言で、市民ジャーナリスト・小山内頼人さんのBlogによれば直後から同じ自民党会派の古参議員に絞られたようで、本人も離党覚悟とも報じられています。
斉藤県議は、市議時代にも相馬前市長を激怒させる質疑をしたり、その返り討ちで問責決議を二度も受けた、私以上の武闘派ですし、この発言は小山内さんたちへのアンケート回答からぶれていないとおり突発的に出たものではありませんので、意を決してのものと思います。
自らの立場を危うくしても、言うべきことを言うのが議員の本分ですから、同じく脱原発・すべての原子力施設の即時停止をすべきと考える立場からも、この姿勢を貫いてほしいとエールを送ります。

もう一つは小さな記事でしたが、7人の市民クラブが4人と3人に分かれたのに続いて、今日は「4人組」の仲間であった伏見秀人さんと、私と議会改革を年初から議論してきた新人・菊池勲市議とで会派結成というニュースでした。
伏見さんは有能なビジネスマンらしいアンテナを張って鋭い切り込みをしてきた方ですし、菊池君も議会改革をするには会派から発言行動すべきだということで半年で切りかえるという果断な決断をしたわけですから、この会派のエネルギーが議会を動かすテコになってくれることを期待したいと思います。

ステージの違い、立場の違いはありますが、縁ある人材が自らの思いを行動に表しているのはうれしいことですし、外からできる限り応援したいと思います。

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